苦難の意味するもの

今「聖書日課」で学んでいるヨブ記は、「人生にはなぜ苦難があるのか」を追求した書である。旧約では、罰のない罪はない。罪を犯した後には必ず罰が訪れるとされた。しかし、ヨブ記の主題は理由なき苦難である。義人が苦しむのはなぜか。ここで問われているのは、神が正しい方で、愛の方であるなら、どうしてこのようなことが起こるのか。悪い者が栄え、正しい者が嘆くという矛盾がなぜ起こるのか。

人間は昔からこの問いをして来たが、誰も答えを持たない。ヨブの友人らは親身になって苦難の中にあるヨブの訴えを聞くことができず、始めから因果応報だと決めつける。そして、無理矢理にでも納得させようと、ヨブに説得を試みた。ヨブにとっては、それは二重の苦しみとなった。因果応報では、説明できない苦難がある。

「ヨハネによる福音書」9章に出てくる生まれつきの盲人もそうである。弟子たちは、「先生、彼が生まれつき盲人であるのは誰の罪ですか。本人ですか。それとも親の罪が子に報いられたのですか。」と尋ねた。ところが、主は「本人の罪でも、親の罪でもない。神の業が現れるためである。」と答えられた。ここで、主は苦難の「原因」ではなく「目的」を問題にされた。「なぜ、こうなったのか」ではなく、「こうなったのは何のためなのか」と。どんな苦難であっても必ず意味や目的があるということを教えてくださったのが、「神の業が現れるためである」という主の答えである。

苦難の中にも意味があることを見出した時、「運命」が「使命」に変わっていく。島崎光正さんというクリスチャン詩人は、二分脊椎症という障がいを持って生まれた。そのために脳からの命令を伝える脊髄が形成不全を起こし、様々な障がいが生じた。医療の進歩により、二分脊椎症の有無が誕生前にわかるようになり、障がいを持った胎児が中絶される危険性が大きくなってきた。そこで島崎さんは出生前診断の廃止を訴えて活動した。島崎さんは与えられた運命を嘆くのではなく、神がなぜこの苦難を与えられたのかを模索し、障がいを持った胎児を中絶して葬り去ろうという世の動きを阻止することが自分の使命だと受け止め、そのために生涯を捧げた。

病気や障がいを癒されることだけが神の業ではなく、病気や障がいを持ちながらも使命に生きる人の上にこそ神の業は現れると聖書は語る。主が、どんな苦難の中でも私たちを最善に導いてくださると信じるとき、失望が希望に変わる。主と出会うことによって、苦難をも神から賜った恵みと受け取ることができる。