『親子聖書日課』は、今日で旧約聖書が終わり、明日からは新約聖書に入る。1988年10月から始めて37年が経ち、いよいよ8巡目に入る。私が上尾教会に赴任してすぐに始めたのが、この『親子聖書日課』であった。それには理由があった。
前任の室蘭教会に赴任した時、教会員は私達夫婦を入れて12名であった。これは伝道しなければ教会は立ちゆかないと思い、伝道の大切さをいつも教会員に呼びかけた。ある時、一人の婦人が礼拝後「先生、いつもお話をしてくれてありがとう。でも私は御言葉を聴きたいんじゃ」と言われた。それを聞いて大変ショックを受けた。それは今、御言葉を取り次いだからである。そう言われて、自分の語ってきたことを振り返ってみた。すると、説教の最後はいつも「伝道しましょう!」で終わっていた。それは教会員にとって、慰めになるというよりも、傷口に塩を塗るようなものであった。誰でも、いつも元気で、何の問題もないということはない。その時、慰めの言葉を聴きたいと思うのは当然である。その事を、私は理解していなかった。
それからは、私もその婦人の言葉を大切にしていきたいと決意した。上尾教会に赴任した時も教会員は12名であったが、教会の皆さんに、「私も皆さんと一緒に御言葉を聴きたいのです。御言葉に導かれていきましょう」と言って、『親子聖書日課』を始めた。聖書を4年半で通読できるようにした。この聖書日課が、沢山の方々に用いられてきた。「聖書日課によって、今日生きる力が与えられました。」「苦難の中でもそれにふさわしい御言葉が与えられ、支えられてきました。」などという声を聞くと、37年間、休まずに聖書日課を作成してきてよかったと思う。
我が家でも『親子聖書日課』が、子ども達の信仰の成長に大きな役割を果たした。かつて我が家では、夕食後に5人の子ども達と一緒に、聖書を読み、感想を述べ、祈り合った。ひらがなが読めれば、聖書は読める。子ども達は、最初は一緒に聖書を読めたという喜びを見いだし、次に問題の答えを見つけたという喜びを見いだし、最後は聖書それ自体の中身を知る喜びを見いだしていった。子どもにはこんな出来事は知らせたくないという聖書箇所は幾つもあったが、子どもなりに受け止め、人間は罪深い者であることを悟っていったようである。子ども達の感想を通して、素直な心を持って御言葉を受け入れることの大切さを教えられた。家族で食卓を囲むことが楽しいように、家族で御言葉を聴くことは、何よりも楽しいひと時である。