上尾教会の信仰告白の初めに、「聖書は、神とキリストと救いとについて書かれた神のことばであり、私たちの信仰と生活の唯一の基準であります。」と記した。「信仰と生活の唯一の基準」ということは、聖書がなければ、信仰生活も送れないわけで、それは日々、御言葉を聴くだけではなく、御言葉に聴き従うことが求められている。ただ、現代人の視点で聖書を読むと、とても「神のことば」とは思えないような、差別と偏見に溢れた記述や歴史的に間違っている記述がしばしば出てくる。聖書は、その時代の制約を受け、不完全な人間が書いたものなので、今の時代にはふさわしくない戒めも数多くあることも確かである。
しかし、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」Ⅱテモテ3:15-16という御言葉は、今も変わることのない真理である。聖書から、主の福音を聞くことができ、主を信じる信仰によって、罪の赦しと永遠の命が与えられることを知ることができる。又、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練するうえに有益です。」の最後の「訓練」という言葉には、成長期の「子どもを躾ける」という意味がある。子どもが様々なことを学びながら成長するように、時間をかけて聖書を学ぶことが大切である。ユダヤ教では、5歳になると聖書を読むように教え、モーセ五書をそらんじるそうである。テモテも幼い頃から聖書に親しんできた。母エウニケや祖母ロイスが聖書に親しんでいたその姿を見て、テモテも聖書を読むことが習慣となり、そこで得た知恵によって、彼の信仰が形づくられていった。アルフレッド・テニソンは、「聖書を読むことそのことが教育なのである。」と言ったが、子ども達が聖書に親しむことによって、思考力や判断力が身に付き、豊かな心や信仰が育っていくのである。
聖書は、人が「どのような良い業をも行うことができるように、十分に整えられた」ものとして読まれてきたことを示している。どのような時代にあっても、この聖書は、その時代、その人にとって、「有益」な知恵を与えてくれるものである。上尾教会には、聖書に親しむために、「親子聖書日課」という独自のプログラムがある。その「親子聖書日課」が、それぞれの家庭で用いられることを願う。幼い子どものいない家庭でも、親や夫婦と用いると、豊かな会話が弾むのではないだろうか。

