「アンコンシャス・バイアス(unconscious bias)」という舌を噛みそうな言葉を最近よく耳にする。何かを見たり、聞いたり、感じたりした時に、「無意識に“こうだ”と思い込むこと(偏ったものの見方)」のことを言うそうだ。例えば、「血液型を聞くと、とっさに、“こんな性格だ”と思う」「赤いランドセルを見ると、とっさに、女の子のものだと思う」「親が単身赴任中と聞くと、とっさに、父親のことだと思う」「私には、どうせ無理と、とっさに思う」・・。
この「アンコンシャス・バイアス」には、色々な側面がある。例えば、「ステレオタイプ」は「学歴、世代など、ある属性に対する先入観や固定観念で、『みんなこうだ』と思い込む傾向」のこと。「ジェンダー・バイアス」は、「ジェンダーに対する先入観や固定観念で決めつけたモノの見方をする傾向」のこと。「正常性バイアス」は「(災害や突発事態の)警告のシグナルを軽んじ、『このくらい問題ない』『自分は大丈夫』と思い込む傾向」のこと。「同調バイアス」は「周りに合わせた方がいいと、周りの言動に合わせたくなる傾向」のこと、「ネガティビティ・バイアス」は「肯定的な情報よりも、否定的な情報の方にひきずられる傾向」のこと・・。私たち人間は、色々なバイアス(偏りや偏見、先入観、認識の歪みや思考の偏り)に影響を受け、支配されている。そのままに放っておけば、様々な弊害が生じてくる。
聖書にも、バイアスが至る所で見受けられる。その一つ、ゲッセマネの園で捕えられた主が、総督ピラトに尋問される場面がある。ピラトが主に、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、主は、「それは、あなたが言っていることです」と答える。現代流に言うなら、「アンコンシャス・バイアス」ということになる。世間の「噂」に、お前の心は捕らえられてそう言っている。あなた自身は、この目の前にいる「わたし」をどう思うのか、何者だと言うのか、と問うているのである。
「ナザレのイエスについて語ることは、自分自身を語ることだ」と言った人がいた。「あなたはわたしを何者と言うのか」この主の問いかけに、私たちは答える必要がある。そこでは人の噂は役に立たない。だから、御言葉を何度も繰り返し読んで、聴いて、そして口にして、絶えず心を新たに変えられるしか取るべき道はない。「ナザレのイエスを誰というのか」は、終わりのない、信仰の歩みの中での問いである。「アンコンシャス・バイアス」から解放されるためにも、主を求めていこう!