み国を来たらせたまえ

毎週の礼拝の中で「み国を来たらせたまえ」と「主の祈り」を捧げるが、どのような思いで祈っているだろうか。「み国」とは、「神の国」「神の支配」と言い換えても良い。即ち「神の支配を来たらせたまえ」と祈ることでもある。私たちは、神の支配が来れば、平和な世界になるのではないかと願って祈っているのではないか。

神の支配はまだ先のことだと思う人もいるだろう。しかし、主の宣教の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ1:14であった。神の国は私たちのすぐ近くまで来ている。又、主は、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」マタイ12:28と言われた。神の国は、私たちのところに既に来ている。つまり「み国を来たらせたまえ」とは、主によって既にもたらされている神の国の中で、私たちが生きることができるようにしてください、という祈りなのである。

しかし、主によって神の国が既にもたらされているなら、何故この世界から悲惨な出来事がなくならないのか、神の国は一体どこにあるのかと疑問に思うことはないか。そこには神が支配しているなら、神が人間を幸福にし、平和を与えてくれるものだと思うからである。しかし、神の支配とは、私たちの願いが適うことではない。神は、独り子イエスの十字架の苦しみと死によって、この世界を支配しておられる。つまり神の支配は、力によって押さえつけ、有無を言わせずに従わせるような支配ではない。愛による支配を私たちの上に確立してくださった、それが「神の国は近づいた。」「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」ということである。

だから、「み国を来たらせたまえ」とは、苦しみや悲しみが解決されて平和が与えられることではない。言い換えれば、苦しみや悲しみが解決されなければ神の国はそこにはない、ということではない。神の独り子が、私たちのために苦しみと死を引き受けてくださった、そこに神の国は既にある。「み国を来たらせたまえ」とは、この神の愛による支配の中で生きる者としてください、という祈りなのである。 

主によってもたらされた神の国は、まだ完成してはいない。神の国の完成は、主の再臨によってこの世が終わる時にもたらされる。「み国を来たらせたまえ」とは、神の国が完成することを待ち望み、そこで与えられる復活の命を一日も早く来たらせてくださるように、と願う祈りでもある。そういう意味でこの祈りは、将来実現する救いを待ち望む祈りでもある。「み国を来たらせたまえ」と祈り続けたい。