「合理的配慮」を目指す

2024年4月より、「障がい者差別解消法の改正」によって、公的機関だけではなく、民間事業所にも、障がい者に対する「合理的配慮」の提供が、従来の努力義務から義務へ変更になった。「障がい者差別解消法」は、すべての国民が障がいによって分け隔てられることなく、相互の人格と個性を尊重しながら共生する社会の実現を目指すことを目的として施行された。そこに示されたのが「合理的配慮」で、分りやすく言えば、障がい者一人ひとりの必要性やその場の状況に応じた変更や調整をすることによって、障がいを理由に差別をしてはならないということである。

「合理的配慮」について具体的な取り組みとしては、例えば、段差のある場合は、スロープを使用することや、聞き取りが難しい場合は、筆談によるコミュニケーションに応じること、また、車いすのまま食事ができるように、備え付けのいすを撤去するなどして、障がいを理由に、入場や宿泊を拒否したり、介助者や保護者が同行しなければ利用を断るなど、差別的・排除的な対応を取らないことである。

しかし、この「合理的配慮」が、残念ながら、教育の現場でも教会の現場でもなされてこなかった歴史がある。障がいがあるという理由だけで入学を断られ、将来の夢を絶たれた若者は大勢いた。又、入学は許可されても、「事故が起きた時は、学校はその責任を負わない」という一文を生徒の親から取りつけるということが行われたこともあった。教会でも、言語障がい者やろう者は、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」ローマ10:10という教えには当てはまらないので、バプテスマを受ける資格はないと、教会の交わりから締め出してきた。

この世の中にはいろいろな人たちが生きている。目が見えない人、耳が聞こえない人、車いすの人、子ども、高齢者、肌の色が違う人、性的マイノリティの人、病気の人、引きこもりの人など、その人たちが、差別され、抑圧され、軽んじられている。自分も病気や老いる中で、障がいを持つことがあるかもしれない。この世に生を受けたすべての人が他の者と平等に生きていくための様々なバリアを取り除くことが、この社会にも教会にも求められている。私たちは、誰もが神によって創られ、生かされている「かけがえのない存在」として、尊重し合うことを実践し、発信していくことが求められている。本日「バプテスト福祉デー」を迎えて、誰もが差別されずに「共に生きる」ことができるように、「合理的配慮」を目指したい。