「神主主義」に立つ教会

「民主主義」って何だろう、と思うことはないか。物事はよく話し合って決めることが大切であるが、意見が分かれたら、最後は多数決で決める。そこでは多数派の意見ばかりに基づいて意思決定が行われ、少数派の意見が極めて通りづらくなることもある。しかし、多数派の利益を優先することが、将来に好ましい影響をもたらすとは限らない。必要な改革がなされず、手遅れとなる可能性も否定できない。

バプテスト教会は、教会員が各自の信仰に基づいて民主的な教会運営を図り、総会で教会の歩みを決定する「会衆政治」を行うことを特徴とする。その意味では、最も民主主義を取り入れているとも言える。しかし、教会は民主主義を実現するためのものではない。民主主義とは、言葉の通り「私たち人民が主であり主権者」で、一番優先されるのは私たち人民である。教会では、最優先されるのは、「神」である。神の御心が一番大事で、「神こそが主権者」なのである。教会とは言わば「神主主義」と言える。だから、この世の民主主義と同じではない。「神主主義」に立って、それと矛盾しない範囲で、「民主主義的」に行う、それが教会の会衆政治である。

「民主主義」と「神主主義」、この二つは気を付けないとたちまち衝突する。この世の民主主義は、極端に言うと「私たち自身が一番偉い王になる」こと。私たちが自分の願いを求めるあまり神の御心に反することをやり出せば、「神こそが真の王だと崇める神主主義」と正面衝突する。例えば、皆で集まる時に、「せっかくの機会だから、自分の中に溜まった鬱憤や自己主張を遠慮なく吐き出そう。民主主義なのだからそうする権利があるし、それが正しい」と考え、誰かが傷付くことを平気で口走ったり、聖書の教えから外れた歪んだ考えを吹聴したりすると、その結果、神の御心とは違う自分勝手な空気に溢れた教会になって行く。教会の会衆政治をこの世の民主主義と履き違えてしまう時、「民主主義」と「神主主義」が正面衝突する。

私たちが大事にしていることは、民主的な会衆政治であるが、神の御心を最優先する「神主主義」があればこそ、一致を見出せる。会衆政治の素晴らしい点は、「神主主義」の要である神の言葉をへりくだって聴くという営みを、教会の皆さんと日頃から分かち合い、祈り合えることである。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。 むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ローマ12:2