かけがえのない存在

私たちは満足したつもりでも、「また渇く」という経験はないか。求めていたものを手に入れて、「これで私は満足だ」と思ったのに、やがて気が付くと、空しい、心が渇いている、本当には満足していないという経験である。そんな私たちに主は、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38と言われた。「生きた水」という表現が、私たちの心に切実に響いてくる。

では私たちは、どんな事に心の渇きを覚えるのか。マザー・テレサは「人は、人間としての尊厳に渇いている」ということを繰り返し語る。私たちは、人間として大切にされること、尊ばれることに渇いていると言う。言い換えると、それほど現代社会は、自分の存在が大切であることを実感する機会が少ない社会となっている。

「尊厳」とは、私という存在が「かけがえのない」「替わりがきかない」存在であるということである。だから、互いを大切にし合い、尊重し合っていかなければならないはずが、私たちが実際に生きている社会の中で、「自分の替わりなど、いくらでもいるのではないか。自分はここにいる必要などないのではないか」と、自分の存在が認められないことに失望し、自分を尊ぶ心を見失ってしまうのである。

神の目から見て、イスラエルの民がいかに「かけがえのない存在」か、聖書は語る。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4(新改訳)。この言葉は、私たちにも向けられている。神の目から見て、私たちが、かけがえのない、替わりがきかない存在であることを伝えるために、主は生涯を通して、又、十字架の死と復活を通して、私たちの心にある渇きを癒してくださった。

私たちに与えられた「生きた水」は、やがて川となって流れ出るようになると主は語る。その川の水は、やがて渇きを覚えている誰かに潤いを与える役割を果たす。ヨハネ4章に登場するサマリヤの女性は、救い主に出会ったという経験を生かして、多くのサマリア人に、主を紹介する人へと変えられていった。主を信じた彼女は、「生きた水」によって心が潤い、それによってサマリアの人々に主を紹介し、福音を伝える働き人としての役割を果たしていった。私たちにも、主を信じることによって、「生きた水」が与えられている。その水を独り占めしてはならない。「生きた水」を分かち合うことによって、互いを「かけがえのない」存在として尊重し合いたい。