み心を地にもなさせたまえ

毎週の礼拝の中で「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と「主の祈り」を捧げるが、どのような思いで祈っているだろうか。「みこころ」とは、「神の意志」を表す言葉である。私たちが、「御心」を祈り求めるにあたって、気をつけたいことは、私たちは往々にして、「自分の意志」を「神の意志」とみなして、正当化してしまうことである。私たちは常にそのような過ちを犯し得る可能性をもっている。

例えば、「神の御心だから」と言って、他者に何かを強制してしまうことはないか。「聖書を読みなさい」「礼拝を守りなさい」「奉仕をしなさい」「献金を捧げなさい」と勧めることも、それが相手にとって、強制されていると受け止めたら、神の御心ではない。宗教二世の問題は、人権を無視した所には、神の御心はないことを示した。

その場で「御心」と言われているもの、しかしそれはもしかしたら、「神の意志」ではなくて、「その人の意志」であるのかもしれない。私たちは自分が「御心」と思っていることが本当に「御心」であるのか、問い続ける必要がある。「御心ハラスメント」とでも呼べるような事柄が、常に起こり得るのだということを気を付けたい。

私たちは何が神の御心なのか、知ることが大切である。この世に神の御心がなされるためには、肝心の御心がよく分からなければ、徒労に終わる。そのために、御言葉を日々聴く必要がある。そして、そこから示された神の御心に生きることである。御心がこの世でなされるために、私たちは「地の塩・世の光」として遣わされている。

神の御心がなされるためには、神の支配と導きを熱心に願い、委ねることである。主も十字架の前夜、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」マタイ26:39と祈って天の父に一切を委ねられた。神の御子である主でさえ、このように苦しみの中で祈られた祈りを私たちも祈るとしたら、自分の力だけでは決してできない。そこには、私たちのために執り成してくださる聖霊の力が必要である。

私たちが「みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と祈る時、私たちは「御心は必ず成る」と信じて祈ることが大切である。御心が成るかどうか分からないけれど、祈るということではない。私たちは、御心がいつ成るのか分からないが、主が再び来られる時に、御心が必ず成ると信じて、祈り続けていきたいものである。