上尾教会では、11月に入るとクリスマスの準備に取り掛かる。早すぎる!と思う人もいるかもしれないが、自分の心に救い主をお迎えするには、丁度良い期間ではないか。主は何のために、クリスマスにこの世に来てくださったのか、覚えたい。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ルカ5:32。主が来られたのは、「罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われた。罪人と聞くと、「叱られたような、咎められるような言葉で居心地が悪い」と思われる方がいるだろう。この罪人とは、決して刑法に引っ掛かる犯罪者という意味ではない。私たちの心の状態、これが罪人であるかどうかということである。
自分は罪から救われなければならない、赦されなければならない存在である。そのために、主の赦しを受けなければ、平安がない、喜びがない、と自覚した人の所に主が来てくださったのが、クリスマスである。ところが、主が来てくださったと知っても、「私には関係がない、私はどこにも悪い所はない。主に委ねなくても私は生きていける」という人にとっては、主がこの世に来てくださったことが自分のためであると結び付かない。だから、クリスマスを楽しんでも、主が大きな喜びをもたらしてくださったことに気づかない。主役のいないクリスマスを祝うのである。
自分が罪人であることを認めた時、主は光となってその人の心を照らし、いのちを注いでくださる。しかも「罪人を招いて」とは、一度限りではない。それは毎日のことである。常に罪人を招くために、主は様々なことを通して絶えず私たちに迫ってくる。だから、生きている限り、罪と絶えず対峙し、罪と向い合う生活でもある。
「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」ローマ7:19 と自覚したパウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。」ローマ7:24と告白した。しかし、主に出会った時、「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」ローマ5:20と、罪の赦しの大きさに心が満ち溢れていった。主を信じてからも、罪を犯してしまう自分がある。それを認めて、十字架の主を仰ぐことである。そこで私たちは初めて救い主に出会う。クリスマスは、年に一度の出来事としてではなくて、主に出会うために、罪人であることを自覚して、自らの罪を悔い改める(神の方向に心の向きを変える)日々としたい。そのために、心の中にこそ、クリスマスの準備をしていきたい。