主を賛美するために民は創造された

朝ドラ「あんぱん」がいよいよ今週で終わる。「アンパンマンのマーチ」の歌詞にある、「何のために生まれて、何をして生きるのか」というセリフが、このドラマの中で何度も語られてきた。その問いかけを聴きながら、先週の「きたかん教会音楽研修会」に出席して、改めてその答えを見出した。

それは、「主を賛美するために民は創造された。」詩編102:19という御言葉である。私たち人間は、何かを賛美したいと思うように造られている。しかし、誤ったものを賛美する時、私たちは的外れの人生を送ることになる。聖書はそのことを「罪」と言う。私たちは、人が造ったものを賛美するきらいがある。人間の偉大さをほめたたえたり、果ては自分自身をほめたたえて生きている。名声や学歴、地位や肩書、財産や能力を賛美することがある。それ自体は悪いものではなくても、賛美の対象になる時、私たちは様々な問題が生じてくる。

そのことを知っていた詩人は、後の世代のために書き記した。「主を賛美するために民は創造された。」と。この言葉は、「主なる神を賛美し、礼拝するために、私たち人間は造られた。」と言うことである。私たちが主を賛美し、礼拝を捧げることは、自分の願いを叶えるためではない。むしろ逆で、私たちは主を賛美し、礼拝を捧げることによって、主の願いに適った生き方をするためである。それは、主に栄光を帰するためである。そこに私たちの喜びがあり、平安があり、神との出会いがある。

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」ネヘミヤ8:10。おそらくイスラエルの民は、主を賛美し、礼拝を捧げる中で、今までの苦しかったことや辛かったことが、頭の中に走馬灯のように浮かんできたと思う。いかに自分たちが、神の教えから遠くかけ離れた生活をしてきたか、そのせいで、辛いみじめな生活をしてきたか。しかし、彼らはこの御言葉を聴いて、そのような者にも関わらず、主は憐れみをもって神殿と町を再建してくださったことを知った。主の恵みと慈しみがわかった。

神から愛された私たちは、心から神に感謝し、礼拝を捧げ、神を賛美して生きる。そこには、自分の過去の罪にいつまでもこだわらない。主が罪と死に勝利されたのだから、主だけを見上げて生きる、それが私たちの生きる力の源となる。礼拝から自分の置かれた場所に遣わされる時、何と心が軽やかになることか。「ともに生きる喜び、かみしめながら歩いていく」(新生讃美歌570)、そんな日々を歩めることは幸いである。