担い、背負い、救い出す神

聖書の中には、高齢者の祝福について語られている個所がいくつもある。その一つが、イザヤ書46章3~4節である。

 「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

私たちは誰もが、この世に生まれた時、母の手に抱かれ、両親や周りの大人たちに背負われてきた。成長するにつれて、背負われることは少なくなってきたが、それでも多くの重荷を負ってもらって、私たちは生きてきた。神に背負われるということも、生まれたばかりの時だけではない。

それは老いて白髪になるまで、この世での生涯を終える日までである。「白髪になるまで、背負って行こう」とは、人生の終わりまで責任を持って背負い続けてくださる、と神は私たちに対して約束してくださっている。白髪は老いの象徴であり、神の尊厳と栄光を表す。白髪となって老いを迎えつつある人は、礼拝を捧げながら、まさしく神と共に生き、神がその苦しみや悩み、誰にもいえない罪すらも全て背負ってくださる恵みを味わい続けることができるのである。

老いと向き合うということは、正直大変なことである。私も来年には後期高齢者の一人になるが、年と共に忘れっぽくなり、足腰が弱り、目や耳は衰えてくる。昨日できたことが、今日はできなくなるという喪失感を味わう。だから、老いは祝福だと、そう簡単には受け入れられない。しかし、その事実と向き合いながらも、これからの人生も神が担ってくださる、神が重荷を背負ってくださる、神が苦難からも救い出してくださる、との約束の言葉を聴く時、大きな慰めと平安が与えられる。

徳川家康は、「人生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし」と言ったそうだが、神は私たちが背負いきれない重荷を負うことを、望んではいない。むしろ神は私たちの重き荷を担い、背負い、救い出すために、御子イエス・キリストをこの世に送られたのである。主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイ11:28-30と、私たちを招いてくださるのである。