放蕩息子の帰郷

レンブラントという画家は、「放蕩息子」の譬話を題材にして、晩年「放蕩息子の帰郷」という大変印象的な絵を遺した。戻ってきた息子を父親が優しく包み込んでいる瞬間を描いている。ぼろぼろになった服、すりむけているようにも見える足の裏。そんな息子の背中に回した父親の手や表情は、優しさで満ちていた。その手はしわを刻み、どれほど息子の帰りを待ち望んでいたかがわかる。父親はわが子の帰りを、今日か明日かと家の外に出て待ち続けていた。そして、息子がまだ遠くにいる時に息子を見出し、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したのである。

父親は、息子が赦しを懇願しようとした矢先に、先手を取って赦しを与える。息子が雇い人の一人にしてもらおうと思っているのに、息子に一番良い服を着せ、手に指輪をはめ、足に靴を履かせる。もう息子と呼ばれる資格が無い者を、再び息子として、相続人として迎える。父親は息子を責めることも、罰することもしなかった。

この父親の姿こそ、父なる神の姿である。神の目には、私たちはこの放蕩息子のように映っているのではないか。私たちは普段、どれだけ深い神の愛によって守られているのか気付かないで、自分勝手に生きているのではないか。しかし、私たちにとって本当に大切なものは何であるのかに自分で気付くまで、いつ帰るか分からない息子を毎日、家の外で待ち続けた父親のように、天の父は私たちのことを見放さず、限りない愛をもって、神のもとに帰ってくる日を待ち続けてくださっている。

ヘンリー・ナウエンというカトリックの司祭は,「放蕩息子の帰郷についてこう書いている。「もし放蕩息子の物語の意味するものが、人間は罪を犯し、神はそれを赦すというだけなら、私たちはこの物語の本当のメッセージを理解していない。この物語が私たちに問いかけるものは、あなたは相続人であり、この父のようになりなさいということだ」。父親もかつては息子だった。今はその息子を無条件で赦し、迎え入れる者となった。神が私たちに求めているのは、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」ルカ6:36との主の言葉に生きることである。もし神が罪人を赦すのであれば、あなたも罪人を赦しなさい。もし神が罪人を家に歓迎するならば、あなたもそうしなさい。もし神が憐れみ深い方であるなら、あなたも憐れみ深くありなさい。あなたはそのような者になるように、招かれているのである。私たちも「放蕩息子の帰郷」のように、神の憐れみに生きる者に変えられたい。