イースターの出来事は、私たちの人生を全く新しくさせる分岐点となる。それは私たちが復活の主を信じることによって、死は終わりではなく、死に打ち勝つ確かな希望が与えられるからである。私たちが主の復活の命に与るためには、主を信じてバプテスマを受けることが大切であると聖書は語る。「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」ローマ6:4と、バプテスマは、古い自分に死んで、主の復活の命によって、新しい自分に復活することを表すのである。その古い自分が主と共に死ぬことによって、罪から解放されて、主と共に新しい命・復活の命に生きる者となる。
パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」ガラテヤ2:20と告白したように、もはや罪に支配される古い自分ではなく、主の愛に満たされて新しい命に生きる自分へと変えられたのである。この「新しい命に生きる」ためには、自分の努力とか、熱心さは必要ではない。ただキリストを罪と死からの救い主として信じるだけで、新しい命に生きる道が開かれる。主を信じるだけで、誰でも、いつでも、バプテスマを受けることができる。バプテスマは救いの条件ではなく、主を信じた者に与えられる恵みのしるしである。
したがって、バプテスマを受けるとは、罪の中を生きてきた古い自分と決別し、主と共に、新しい歩みを始める出発の時である。その出発の時を迎えて頂きたいと切に願っている。古い自分を十字架につけ、主にある復活の命に生かされていくなら、どれほど生きることが楽になるだろうか。マルティン・ルターは、人生の暗黒の時期を通った時、繰り返しある言葉を唱えた。それは、「私はバプテスマを受けている」という言葉である。「バプテスマによって、キリストの御名が私に刻印されたのだ。神の愛は、変わることはない。」と言って、ルターは、失望落胆の沼に沈むことから救われたように、私たちもまた、神の変わらぬ御言葉に支えられて歩む者でありたい。
主が私たちの罪を赦すために、十字架で死なれ、3日目に復活してくださったが故に、私たちは古い自分に戻ることはない。それゆえ、主を信じることによって、古い自分に別れを告げ、復活の主の命に満たされて、新しい人生の歩みへと踏みだそうではないか。今日のイースターを、人生のイイスタートにしたいものである。

