朝ごとに新たになろう!

神学者カール・バルトの言葉に、「聖書の真理をあなたがたが知りたいと思うのならば、新聞をよく読みなさい。あなたがたがこの世の出来事の真相を知りたいと思うならば、聖書をよく読みなさい。」とあった。聖書の教えは、昔話でも、個人の宗教的な救いをもたらすだけのものでもなく、聖書は、この世の出来事において常に示唆を与え、生きた言葉として語られるものであるという。この世の中で起きていることの真相を知りたければ、新聞だけでなく、聖書を読むことも大切だというのである。

毎朝、新聞を読むと(昨今、読まない人が増えているが)気が滅入ることはないか。コメなどの物価高騰によって、庶民の生活が苦しくなっていること、若者が短絡的に人の命を奪う事件が多発していること、戦争や内乱、差別やハラスメントが収まらず、命や人権が軽んじられていること、戦後80年経って、日本も再び軍備増強を進め、国民の暮らしが犠牲にされていること、トランプ関税の影響で企業の業績が悪化していること・・目を覆いたくなるような記事で満ちている。

そのような現実の中に生きる私たちに、聖書は希望と平安を与えてくれる。昨日から「聖書日課」は、「哀歌」に入った。哀歌は、文字通り、悲しみ、嘆きの歌で、イスラエルの民がバビロンに滅ぼされ、捕囚となるという屈辱、国家滅亡という状況の中で歌われた。哀歌は「なにゆえ(ああ)」という感嘆詞から歌われているが、この言葉にその状況が明確に表れている。エルサレムの神殿は破壊され、すべて焦土と化した。この悲惨な現状を目の当たりにする時、誰もが絶望的になった。

ところが3章22-24節には語調が変わり、主の慈しみと憐れみが記されている。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。」苦難の中で、主の憐れみに目を向けている。しかも「それは朝ごとに新たになる」と、毎朝、主の慈しみ、憐れみは、決して古びることなく、絶えず新しく新鮮なものとして注がれていくのである。しかもそれは、フェイクではなく「真実」である。アシュラムでは「朝の15分があなたを変える」という言葉で、「新聞」よりも「真聞」(御言葉に聴く)を先に読むことを奨励しているが、御言葉を聴いて始める一日は、御言葉によって新たな力を頂き、穏やかに過ごすことができる。日々「聖書日課」を用いて、主の慈しみと憐れみを頂いて、朝ごとに新たになろう!