今月、この地に会堂が建ってから25周年を迎える。「会堂建築は筋書きのないドラマだ」とよく言われるが、まさに上尾教会の会堂建築は、人間の計画では計り知れない、神の御計画によるドラマであった。当初、土地と建物を含めて1億円とした目標も、神から示された約束の地と思えた現在の土地117坪は8700万円もかかった。当時は土地がとても高かった。だから、1億円で収まるわけがない。しかし、感謝なことに連盟から5千万円の支援を頂き、大きく前進することができた。ところが、建築工事も始まる中でまだ資金が足りない。そこで第三次献金として、毎週礼拝後、「主よ、わたしたちのために 大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。」詩編126:3と皆で斉唱して祈り合い、各自示された献金額を提示した。すると驚くべきことに、750万円の献金目標額が満たされた。そして、10年を待たず、1999年10月に新会堂が建ったのである。総工費は1億5550万円であった。
この経験は、私たちの信仰に大きな確信をもたらしてくれた。私たちが、神のために大きな業を成し遂げるのではない。もし私たちが、神のために大きな業を成し遂げようと考えるなら、私たちは自分の力不足を嘆いて、「そんなことは無理です」と、祈る前に諦めてしまったのではないか。しかし、そうではなく、「主が、私たちのために大きな業を成し遂げてくださる。」からこそ、たゆまず祈ることができたのである。
先週の「聖書日課」で、この詩編126編を改めて読んでみた。バビロン捕囚からの帰還後、祖国に帰った人々を待っていたのは、過酷な現実だった。すでに華麗を極めたソロモンの建てた神殿は見る影もない廃墟となり、神殿の再建工事は19年間も捨て置かれたままであった。そんな中で、「主よ、わたしたちのために 大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。」と、将来の希望を主に託すのである。
そして、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」詩編126:5と、涙ながらに種を蒔くのである。普通、豊かな刈り入れを期待して種を蒔くのであって、涙ながらに蒔く人はいないだろう。なぜ、「涙と共に種を蒔く」のか。それは、その種が今日食べる食料であったからだ。その食料を捧げることに、葛藤を抱えていたに違いない。だから「種を蒔く」ことに涙があった。しかし、主が私たちのために大いなる業を成し遂げてくださると信じて、自分に与えられたものを主のために捧げて生きる時、「喜びの歌と共に刈り入れる。」という豊かな収穫を経験することができるのである。