「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」使徒言行録2:17-18
聖霊降臨日に、上記のヨエル書をペトロは引用した。旧約の時代には、神に選ばれた特別な人、王や祭司や預言者に神の霊が注がれ、神の言葉を託され語ったが、終わりの時(現代)には、神の霊がすべての人に注がれ、彼らは預言する者となった。神の霊の注ぎは、皆が預言する者になるということである。神の霊が私たちの内に注がれた故に、人は神の言葉を聴くことができ、又、神の言葉を語ることができる。
礼拝の説教は牧師だけの務めではない。連合内では、牧師がいても月一回、もしくは二ヶ月に一回、信徒が説教し、牧師は会衆の一人として聴く教会が増えている。説教は語る者と聴く者との共同作業であるので、どちらの立場も経験することは大切である。説教者は、会衆一人ひとりに慰めと希望が与えられるように、祈りをもって説教を準備する。又、会衆は、説教者が大胆に神の言葉を語れるように、祈りをもって聴く。そして、語る者と聴く者が一つになる時、神の言葉は出来事になる。
瑞穂教会の週報の巻頭言に、秋山義也牧師が下記のように書いていた。
「私たちバプテスト教会の魅力の一つは、「説教」が教会に与えられたわざであるという神学的理解のもと、信徒も牧師も共に御言葉を語る者とされていく点にあります。他教派では牧師となるために神学校卒業が条件とされていますが、バプテストは異なります。主の御心と信じた人を教会が招聘し、本人が受諾すれば牧師となる。このプロセスには、バプテストの神学的特長がよく表れています。私が牧師となってから、ある来会者の方から「信徒ではなく、やはり牧師の説教を聞きたい」という声をいただいたことがあります。その言葉に対して、私は「信徒だからこそ語れる言葉がある」と応答の思いを抱いてきました。そして執事研修会では、何度も「説教の学び」を共にしてきました。どの執事の方も、説教への重圧を感じながらも御言葉に向き合ってこられました。その姿に、私はどれほど励まされてきたことでしょうか。「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」(Ⅰコリント14:31) この御言葉の豊かさを、私は信徒説教者を通していつも教えられてきたように思います。」(2025.11.16)

