「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコによる福音書7章8節)
教会とは何でしょうか。建物のことでしょうか。毎週の礼拝のことでしょうか。あるいは、長い歴史の中で受け継がれてきた伝統や慣習のことでしょうか。私たちが「教会」という言葉を口にするとき、そこに何を思い描いているか。この問いに立ち止まることは、信仰生活の中でとても大切なことだと思います。
マルコによる福音書7章は、この問いに一つの光を投げかけてくれます。ファリサイ派の人々は「昔の人の言い伝え」、すなわち口伝律法を忠実に守っていました。それは、もともと神さまの御心に従いたいという真剣な願いから生まれたものです。ところが、いつの間にか手段が目的となり、形式が本質を覆い隠してしまいました。イエスさまは「コルバン」の例を挙げて、宗教的な形式が「父母を敬え」という神の戒めを無効にしていると厳しく指摘されました。神さまへの献げ物という敬虔な行為が、最も身近な隣人である親を顧みない口実になっていたのです。
この指摘は、二千年前の出来事として片づけることができません。どの教会にも、信仰の先輩たちが築き上げてきた大切な伝統や慣習があります。しかし、それを守ること自体が目的となり、律法の本質である「神を愛し、隣人を愛する」ことが見えなくなるとき、私たちもまた同じ落とし穴にはまりかねません。「ずっとこうしてきたから」という理由が、「隣人と共に生きる」道を閉ざしてしまうなら、それこそ「神の言葉を無にしている」ことになるのです。
教会の本質は、建物でも制度でもありません。神さまを礼拝し、互いに愛し合い、共に生きる交わりそのものです。互いの声に耳を傾け、違いを認め合いながら歩むこと。それは時に難しく、忍耐を要することかもしれません。しかし、その歩みの中にこそ、生きた教会の姿があるのではないでしょうか。北関東地方連合教会の相互訪問礼拝もまた、教会の壁を越えて学び合い、支え合う、そのような交わりの一つの姿だと信じます。
変わるものがあります。しかし変わらないものがあります。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13章8節)。時代が移り、教会を取り巻く状況が変わっても、この方の御言葉は揺らぎません。教会とは何か。その問いの答えは、いつもこの御言葉の中にあります。その土台の上に立ち、神の言葉に絶えず立ち返りながら、共に歩んでまいりましょう。

