聞くことから、行う人へ

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

ローマ10:17

 私たちは、人の話を聞くことが苦手ではないか。自分に関心のあること、自分の聞きたいことは聞く、或いは、本当に相手の言いたいことをそのままに受け取ろうとしないで、自分の聞きたいように勝手に解釈してしまう。聞くということを真剣に考えていくならば、頑なな自分というものがかなり邪魔をしていることに気づく。

これは、信仰においても、決して無視できない問題である。人の話をちゃんと聞けないのに、主の言葉だけはちゃんと聞けるなどということはあるのか。主も聴衆に様々な教えを説いた後、「聞く耳のある者は聞きなさい」マルコ4:9と言われた。 集まってきた人々は大切な主の言葉を右から左へと聞き流した。私たちも聞いているようで、頭の中であれこれ考えて、聞き流していることはないか。

私たちは、聞いた内容の95%を、72時間以内に忘れてしまうのだそうだ。たとえ、日曜日にどんなによい説教を聞いたとしても、それを書き留めたり、考えたりしていなければ、水曜日には話した内容の95%以上は忘れ去ってしまうことになる。聞いた内容を思い出せないのに、どうやってそれを実行することができるのか。御言葉は、聞くだけでは足りない。勿論、信仰は聞くことから始まるが、ゴールは、実行するようになることだ。私は妻から、用事を頼まれた時、「はい、わかった」と応えても、頼まれたことをしていないと、「あなた、私の言ったこと聞いていなかったでしょう」と叱られる。聞くということは、語り手の主に応答することが求められる。

御言葉を聞くためには、日々、主と時間を過ごすことである。御言葉を聞き、思い巡らす。そして御言葉を、周りの人々に行っていく。そういう時間が長ければ長いほど、私たちの人生は豊かなものになっていく。それには、短期的な努力ではなく、日々の継続した努力が必要である。上尾教会には、「親子聖書日課」という親子で一緒に御言葉に親しめるものが、36年も続いている。聖書の通読も8巡目になる。それに親子三代にわたって参加してくださっている家族もいる。日々の積み重ねによって、神からの恵みをいただき、豊かな信仰の交わりが生まれている。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」                                              ヤコブ1:22