見張り人として破れ口に立つ

「聖書日課」は、先週から「エゼキエル書」に入った。この書は、20代半ばにバビロンに連れ去られた預言者エゼキエルが、30歳の時に主の栄光の幻を見て、神が全世界の人々を治めておられる神であることを知った。神の御言葉をイスラエルの民に届けるため、象徴的で、非日常的な行動を通して人々の注意を引きつけて、神が民に対して行うことを預言した。黙示文学的な性格を持った書である。

神が、このエゼキエルに求めた使命の一つが「見張りの務め」である。3章で、エゼキエルは預言者の務めとして、神から民を見張るという使命が与えられた。その働きは、どんな悪人であっても警告して、悪の道から離れ、命を得るように諭す。もし、諭さないまま、悪人が自分の罪のゆえに死んだ場合は、責任は見張りの使命を蔑ろにした預言者にあるという。又、正しい人が自分の生き方を守り続けるように警告するのも預言者の使命であって、警告しないままに正しい人が不正を行うようになったら、見張りの使命を怠ったことになり、預言者にその責任を問うという。

そのために、「城壁の破れ口」に立つよう神から促された。「破れ口」とは、城壁で一番弱くなっている箇所である。敵が攻める時、城壁の破れ口を探し出し、そこから攻め入る。預言者は、その城壁の破れ口に自分の身を挺し、城壁の中にいる民を守らなければならない。もしかすると、敵がその城壁の破れ口から攻め入った時、真っ先に犠牲になるかもしれないが、その破れ口に上らなければならない。

バビロンの地で預言者として働いたのは、エゼキエルだけではなかった。けれども、多くの預言者たちは、自分の心のままに預言し、主の日の戦いに耐えるために、城壁の破れ口に上ろうとしなかった。彼らは虚しい幻を見、欺きの占いを口にしていた。平和がないのに、彼らは「平和だ」と言って民を惑わした。だから、エゼキエルは角笛を吹き鳴らして人々に警告しなければならなかった。どうしてこれほどまで、エゼキエルは「破れ口」に身を挺して、城壁を守らなければならないのか。

18章で、神は「だれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」そのために「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ」と言われる。エゼキエルは、最後に再建されるエルサレム、その神殿の設計図を書き記す。その再建される都の名は、「主がそこにおられる」という言葉で締めくくる。神は、今日のエゼキエルを求めておられる。私たちも見張り人として、破れ口に立とうではないか。