共同体として              

上尾教会という「共同体」の役目は、いったい何なのかを考えてみた。教会が、神の力で生み出され、イエス・キリストをかしらとするひとつの体であるとするならば、この共同体が、おのずから、神の愛と恵みに感謝する応答をするべきものであるのではないかと思う。

私は、東京バプテスト神学校の「新約聖書Ⅱ」の学びを受講させていただいた。その中で、キリスト教葬儀のことも学び改めて、キリスト教の共同体とつなげて考え、確信できたことがある。コロナから人との接触を控える習慣が当たり前のように、葬儀にも影響してきた。小さなお式や家族葬といって、家族だけや、親族でも選んで集まるお式が増えてきた。知人が亡くなったことを、はがき1枚で知ることも経験する。もちろん、家族だけで故人を思う存分偲び、余計な気兼ねもいらないことを考えるとそれも良いかもしれない。

教会の葬りは、少し考えが違うことを学びの中で気づいた。キリスト教の葬儀には、神様のドラマがある。故人の生き様を牧師が語ることが多い。故人がどうやって病や人生と戦ってきたか、その中で神様がどう働かれたかを牧師が話され、参列者も、共に故人の人生の歩みを頭に描くことができる。また、故人が教会生活を送っていたとすると、教会員も故人のことを証言する。そこで、故人の遺族も自分たちの知らない故人のことを知ることもしばしばある。そして参列の人々が、共に懐かしみ、共に悲しみ、共に泣く。そこで故人のおちゃめな言動に笑いが起こることもたびたびある。故人の好きな賛美歌を歌い、好きな聖句が披露されることもある。

共同体の中では、牧師はもちろんのこと、神の家族として、一人が病に倒れれば、皆で共に祈り合い、慰め合い、励まし合う。病床の時から祈っている。ましてやその人が召されたら、皆で共に悲しみ、故人が神様のそばで平安であることを祈る。

それだけではない。キリスト教葬儀の特徴は、「死」は故人の終わりではなく、「キリストの死と復活」の大きな物語の中に位置づけることができる。牧師は、「死」は単なる終わりではなく、「キリストの死と復活の約束」があることを参列者に告げる。また、人の生き方はそれぞれであるが、どんな苦しい歩みでも、神様が、天国で住む居場所を用意してくださっていることも希望になる。そして、故人を神様のみ手にゆだねて葬儀は旅の完成の時を共にする。私は、この共同体を大切にしたい。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」 (ローマの信徒への手紙 12:15)