神の同労者                  

「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。』」ルカ13章8節。

これは2月25日、水曜日の「親子聖書日課」です。いつものように一度通して読み、見つけた答えを記し、そしてしばらくコメントと、この箇所をゆっくりと味わう静聴の時を持ちました。コメントには、「主人は神様。園丁はイエス様。実を結ばないイチジクの木は私たち」とあり、園丁なるイエス様が切り倒すよう命じられた木のために執り成してくださっている様子が書かれていることを教えていただきました。その日はいつにも増して「アーメン」と“合点”がいき、「それは私。主人が毎年見に来るのに、結んでいる実を見つけることができないイチジクの木。」そうひしひしと感じたのです。忍耐して、イエス様が繰り返し私を神様に繋いでくださっていることがわかりました。また、そんな私は信仰の友や家族、先輩方や牧師など多くの方々にも同じようにしていただいているのを感じました。

レントの時、そしてスチュワードシップ月間を漫然と過ごしていた私に、主が次のことをお示しくださいました。イエス様はヨハネ13章から16章にかけて弟子たちの下を去っていかなくてはならないこと、しかしその後は主の名を信じる者に弁護者、真理の霊、聖霊を与える約束をしてくださっています。三つの言葉が使われていますが、どれも同じもの、一つなのです。14章26節で使われている「聖霊」。これは聖書の源語では「パラクレートス」と言うのだそうです。ある礼拝でこの箇所から「パラリンピック」の「パラ」は「オリンピックと似ているかなー?」ではなく、「全く同じもの」という意味だと語られました。父と、子と、聖霊の名によるバプテスマを授けていただいた私たちが例外なく、主から受けているのは「信仰」です。それによって求めるなら主が豊かに送ってくださるパラクレートスに導かれて、私も「神の同労者」として用いられるのだと感じました。

「他者のためにできることなど無い」と思っていましたが、イエス様がしてくださった執り成しの業に私も倣います。愛する皆さんと祈りの課題を共有し、お一人お一人の課題を気を落とさずに絶えず祈る者とされますように。そして造り主のお名前を知らない隣人のために祈り、福音を届けます。私のやり方で届かない時は、別の方法を持っている仲間に手伝ってもらって、奉仕を分かち合うこともできます。あの日、私は「神の同労者」の意味を本気で理解できたのだと感じています。「親子聖書日課」に感謝です。