来週の「子どもの日礼拝」では、子ども達の信仰の成長を願って、上尾教会は毎年、子ども達に奉仕を担ってもらっている。その取り組みを、諸教会の方に伝えると大変驚かれる。子ども達は、礼拝に出席するだけで、礼拝に参与できるとは思わないからである。しかし、信仰のバトンを次の世代に受け渡すためには、子どもと一緒に奉仕をし、一緒に育つことが何よりも大切であると考える。
最近は、「信仰の継承」ということに否定的な意見も聞く。それは、「旧統一教会」や「エホバの証人」における「宗教二世」の問題も影響していると思う。子どもにとって「信仰=自分を苦しめるもの」という強い印象を残し、結果として信仰そのものへの不信に繋がっている。二世の中には、教団の教えにより、交友関係や恋愛が厳しく制限される、教義に基づくルールを破ると、罪悪感や罰の恐怖を植え付けられる、といった「宗教的虐待」と指摘されるような状況を経験した人もいる。「自分で信仰を選べなかった」「やめたいと言えなかった」という感覚は、信仰を受け継ぐことへの強い抵抗に繋がり、自分の子どもに信仰を手渡すことへのためらいを生む。
又、「信仰を子どもに押しつけてはいけない」と迷いが生まれ、結果として信仰を前向きに継承しにくい空気が広がる。「信仰は個人的なもの」「子どもには自由に選ばせるべき」これらは一見子どもの意志を尊重しているように見えるが、実は信仰を語ること自体を遠慮させてしまうことがある。その結果、家庭で信仰の話をしなくなる、子どもは信仰を「選ぶ機会」すら持てなくなる、信仰が「継承されるもの」ではなく「偶然出会うもの」になってしまう。つまり「信仰は個人の問題」という言葉が、結果として「語る責任」や「伝える喜び」を弱めてしまうことになる。
本来の継承とは、「押しつけ」ではなく「分かち合い」である。信仰の継承は、強制ではないが、語られなければ伝わらないのも事実である。継承には、次のような営みがある。日常の中で自然に祈る姿を見せる。「親子聖書日課」で御言葉を分かち合う。喜びや悲しみの時に、「神に委ねる」姿勢を示す。教会が「神の家族」として存在していることを一緒に味わう。信仰が人生の支えであることを、言葉と態度で表す。これらは押しつけではなく、むしろ「生き方による証し」である。信仰をもって生きることがどんなに素晴らしいことか、日々の生活の中で証していきたい。
「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。」Ⅱテモテ3:15

