バプテスマの恵みに共にあずかりたい

来週、上尾教会ではバプテスマ式を行う予定である。バプテスマ式は、主の晩餐式と並んで、「見える神の言葉」と言われる。それは、主の十字架の死と復活の命の福音がもたらす神の救いの出来事を、目で見える形に示したものである。目に見える神の言葉だからこそ、劇的な回心の体験ではなく、神の約束が中心にある。

劇的な回心を求める人の中には、「バプテスマを受けるには、自分はまだ十分ではない」と感じるようだが、聖書は回心の形を一つに限定していない。パウロのような劇的な回心をする人もあれば、テモテのように、幼い頃から御言葉に親しみ、信仰が育てられて信じる人もいる。むしろ、そちらのタイプの人の方が多い。

バプテスマの条件はただ一つ、神の言葉(神の約束)は信頼に価するものであるとの信仰に生きることである。信仰はまず心の内側で起こるが、それだけでは完結しない。口を通して外側に現れる時、信仰は確信に至る。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」ローマ10:9-10。ですから、大切なことは、「イエス様は私の救い主と信じます」と信仰を告白することである。その信仰告白に基づいて、教会ではバプテスマを授ける。

バプテスマは、信仰のゴールではなくスタートである。バプテスマは、入学式のあとに学びが始まるのと同じである。「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」ガラテヤ3:27。この「キリストを着ている」とは、これからの人生、復活の主と共に二人三脚で歩み、キリストに似た者になることを目指す。つまり、バプテスマは、受けてから信仰の成長が始まることを意味する。

では、信仰のゴールとは何か。それは、救いの完成と神の栄光にあずかることである。そのために、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 」フィリピ1:6とあるように、主が成し遂げてくださると確信することであり、「信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。」ヘブライ12:2(聖書協会共同訳)とあるように、先立ちたもう主を見つめながら、『ウサギとカメ』の童話のカメのように、自分のペースで、休みながら、時に立ち止まりながら、でも確かに主へ向かって歩み続けることである。どんな新たな人生が始まるのか、大いに期待して頂きたい。