我らの日用の糧を今日も与えたまえ

上尾教会では毎年、「世界食料デー」の働きを礼拝の中で覚える。83億人が住む地球では今も約7億人が慢性的な飢餓に苦しみ、そのうち7割が子どもである。もっとも弱く小さな命が、食べ物がないという理由で命を落としている現実は、全く改善されていない。しかし、飢餓は「食べ物が足りないから起こる」のではない。世界では約30億トンの穀物が生産されており、これは150億人分の消費量に相当する。つまり、食料は十分にあるのだ。それでも飢餓が起こるのは、食べ物が必要な人に届かないからである。貧困、紛争、政治的な不安定、そして一部の人々の貪欲さが、食料の流れを止めてしまうのである。

日本も例外ではない。年間 500万トン以上の食料が廃棄され、国民一人ひとりが毎日おにぎり1個分を捨てている計算になる。一方で、国内の子どもの9人に1人が相対的貧困にあり、食事に困っている。ひとり親世帯の貧困率は依然として高く、食卓に十分な食事が並ばない家庭が少なくない。「食料がある国」であっても、「食べられない人」がいる。これが日本の現実である。

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」この主の祈りの一文は、現代の世界を見つめるとき、ますます重い響きを持っている。主の祈りの「我ら」とは誰のことか。自分の家族のことか。自分の教会の信徒のことか。いいえ、神が造られたすべての人のことである。国籍や文化、宗教、社会的立場に関係なく、神の前では一人ひとりが高価で尊い存在である。神の愛が届かない人は、この世界に一人もいない。だからこそ、私たちが礼拝で「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」と祈るとき、その祈りは世界中のすべての人のための祈りでなければならない。そしてその祈りは、単なる願いではなく、私たち自身の行動へとつながる招きでもある。

募金を送る「日本国際飢餓対策機構」の案内には、「わたしから始める、世界が変わる」とあった。身近なところでできることがある。フードバンクへの協力、子ども食堂の支援、食品ロスを減らす生活、困っている人に心を向けること。小さな一歩でも、誰かの「日用の糧」になることがある。主の祈りは、私たちを世界の痛みに向けて開かれた心へと導く。今、私たちは改めて祈りたい。

「主よ、世界のすべての人に、今日必要な糧をお与えください。そして、私たちをその働きに用いてください。」