人間は、何故殺し殺される戦争や紛争を止めることができないのか。今も、ウクライナがロシアの侵略に対して戦い、パレスチナ人がイスラエルからの一方的な爆撃から逃げ惑っています。
人類は、約8000年前に都市を作り、文明を発展させてきて現代に至りますが、その間も戦いの連続で、勝者と敗者を作り、殺し殺される歴史を繰り返してきました。近現代の第一次・第二次世界大戦を通じて、争うことの悲惨と無意味から学び、先人たちの叡智を拠り所にして平和を実現し、現代に至ります。
私たちに一番身近な大きな争いは第二次世界大戦ですが、世界中で多大な犠牲をはらって、今の平和な社会が実現できたことから何を学んだのか。(人間らしく暮らせる国は世界のほんの一部ですが)戦争に至る前に、それを止める努力は世界中でなされました。日本でも兵役拒否をして監獄に収監され拷問されながらも、最後まで兵役拒否を貫いた人たちの歴史があります。こう言っては収監され、拷問され、殺された人たち(明石順三や三木清や小林多喜二たち)に申し訳ないですが、それでも戦争自体を止めることはできなかった。戦争は、一旦始まったら、個人が“良心的兵役拒否”をしても止めることはできないことを私は学びました。私などは、“良心的兵役拒否”をしたくても、殺されることはもちろん、収監されて拷問されることなど、怖くてとてもできないです。
第二次世界大戦の歴史から学んだことは二つ。一つは、戦争は起こる前に芽を摘むこと。二つは、平和的抵抗と成功例という意味から、ガンジーの無抵抗主義の実践です。ガンジーは、ヒンズー教徒ですが、聖書を読み、トルストイとソローを敬愛していたそうです。私の勝手な想像ですが、無抵抗主義を実践したガンジーの脳裏には、“汝、殺すなかれ(出エジプト記20章13節)”と“平和を実現する人々は、幸いである(マタイによる福音書5章9節)”があったのではないでしょうか。
最後に、戦争の芽を摘むためと、武器を使わない抵抗を実践するためには、“無関心”ではいけないということ。戦前ドイツの白バラ団の反戦ビラにはこう書いてあったそうです。“心に着せた無関心という名の外套を脱ぎ給え。まだ間に合ううちに。”残念ながらヒットラーによる戦争に、彼らの訴えは間に合わなかったのですが、彼らが日々戦争が近づいていることを肌で感じたことに対する心からの叫びだったのでしょう。