イエス・キリストの誕生は、紀元前700年前から預言されてきた。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」イザヤ9:5。この預言が記された時代は、アッシリアによって侵略され、権力者の圧政により、人々は飢えと恐怖に苦しんでいた。そのような中で預言者イザヤは、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」9:1と、闇の中を歩んでいた民に神の言葉を語る。この預言こそが人々の希望となった。
このイザヤが見つめた「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」の姿は、イザヤの時代だけではない。深い闇、死の陰の地に生きる者の姿は、現代社会にも存在しているのではないか。自然災害や異常気象、国と国との争い、人と人との関係の断絶、差別や偏見、いじめや虐待、貧困などで人々はもがき苦しんでいる。闇バイト事件が毎日のように報じられているが、その背景には、雇用の劣化による若者の貧困化や様々な依存症があることは想像に難くない。又、理解してもらえない痛みで、不平不満が満ちている。不条理な出来事の中で、悲しみや憤りが渦巻いている。
このイザヤの言葉は、まさにそのような闇の中に、「光が輝いた」と宣言する。闇が去ったので、「光が輝いた」のではない。依然として闇に覆われている。その中で輝く光とは、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。」ことによってもたらされた光である。イスラエルの民は、自分たちを救ってくれる王の誕生を待ち望んでいた。ダビデ王家から救い主が生まれ、ダビデ王家が末永く続くことで、平和な社会、苦しみのない世界が訪れると思った。しかしイザヤは、地上の王ではなく、神が私たちに与えてくださる「平和の君」としての「ひとりのみどりご」の誕生を告げる。
この救い主の誕生によって、闇の中に閉ざされ、死の陰の地にあって悲しみを背負い、生きる望みを失った者たちに大いなる光が差し込み、「人々は御前に喜び祝った。」9:2と告げる。その「光は暗闇の中で輝いている。」ヨハネ1:5と、現代も「輝いている」と言う。それは、私たちにとってキリストの誕生は、過去のことではなく、現代のことだからである。私たちの人生は、先行きの見えない、暗闇としか思えないことがある。世界に目を向けると、人が人の命を奪う戦争の現実、主を拒む社会の現実、暗闇としか思えない現実が確かにある。けれども、どんなに暗闇が差し迫ったとしても、暗闇の中で光は輝いていることに気づくクリスマスでありたい。