あなたは高価で尊い 

たとえば、友人の家に遊びに行ったら、もてなしてくれる友人の手伝いをしたいと思う。テーブルを拭いたり、何かを運んだり、飲み終わったカップを片付けたり。料理の盛り付けなんかを頼まれようものなら喜び勇んでその役目を果たそうとする。多かれ少なかれそんな場面を体験したことはないだろうか。ちょっとしたことでも役に立てたら嬉しいし、何かを頼まれたら自分の120%でそれをしたい。しかもそれを褒められたら満更でもなく顔がほころぶ。逆に何もせずに座っている事を求められても、お尻がムズムズして落ち着かないものだ。

これは、私の勤務する高齢者デイサービスでよくある光景。私がテーブルを拭いていると「ここ拭くわよ!」とご自分が座っている範囲を拭こうとしてくださる。お一人に頼むと我も我もと手が伸びてくるので、テーブルの上の飾り物を持っていてくださるようにお願いすると、待ってましたとばかりに私が拭き終わるまで胸に抱えていてくださる。テーブルの飾り物がないと一度に拭けて、これは本当に助かるので「すごく助かります!ありがとうございます!」と言うと、先ほどの満更でもない満足そうな笑顔を返してくださる。これが何度か続くと、私がアルコールスプレーとペーパータオルを持って近づくと見るや、さっと飾り物を抱えてくださる。それを見た次のテーブルの方もさっと飾り物を持ってくださる。夕方になると、専業主婦だった方の人生に染みついた、家族のためのご飯作りのスイッチが入る。もうこんな時間!息子のご飯作らなきゃ!息子は何にもしないもの、しようがないわよね〜と言うそのお顔も満更でもなく嬉しそう。それじゃお先に!といそいそと立ち上がるのを慌てて引き留めて、何かしらの「お仕事」をお願いする。これまた仕方ないわねと、一所懸命に「お仕事」をしてくださる。ようやく車に乗る時間になったのに、まだ「お仕事」が終わってないと残念そうに立ち上がる。

実に人はどこまでも、誰かの、何かの役に立ちたいと願う。しかし、自分で決めた基準を満たせなくなった時、もうダメだ、情けないと悲しむ。でもね、「あなたは高価で尊い」とおっしゃる神様の基準は「そのまま」。「主なるあなたの神を愛せよ」の基準は「とにかく精一杯」。神様はあなたに恵みを贈ったから良く管理するようにと言われる。それに応えたい私は、少しずついろんな事が下り坂のお年頃、でもその時々の私のままで、とにかく精一杯神様を愛し信じて歩みたい。