「福音の言葉」という「新しい共通語」

ペンテコステとは、「五旬節」という意味である。主の復活から50日目に、弟子たちの上に聖霊が降り、宣教の働きが始まり、教会が誕生したのである。弟子たちは主から聖霊の約束を頂いて、祈りつつその時を待ち望んでいたが、捕らえられることを恐れて、主を大胆に語ることはできなかった。しかし、その弟子たちの上に聖霊が降ると、様々な言語で大胆に語り始めるという奇跡が起こった。それによって、世界中の国々からやってきた巡礼者たちが主の福音を聴くことができた。

浅野順一牧師は、この日の出来事について、「霊と言」と題して下記のように語る。

「信仰は信じることであって単なる理屈ではないのであるから、我々の生活の中に何らか新しきもの、力づよきものが創造されていくためには神の霊によらざるを得ない。ペンテコステにおいては、実に神の霊が弟子たちの上に降ることによって彼らを一斉に立ち上がらせた。イエスを失った彼らの周囲には厚い壁のようなものが取り巻いていて、彼らは身動きもできないような重苦しいものを感じていたであろう。復活のキリストが彼ら一人一人に現れて彼らを励ましたのであるが、神の霊が降るまでは彼らは動きだすことはできなかった。霊と結びつかなければ言には力がない。」  

同じ聖霊が、今、私たちにも働いている。弟子たちのように、私たちも主の証人として大胆に語ることができる。言葉や行いによる証、又、教会にお誘いすることで、主の福音が伝えられ、救われる人が起こされ、主の栄光が現される。恐れや弱さを感じた時にも、助け主である聖霊が私たちに必要な力を注いでくださり、信仰を強め、祈りに導いてくださる。そして、主の証人として用いてくださる。

このペンテコステの出来事を通して、「福音の言葉」という「新しい共通語」が与えられたという恵みを発見するのではないか。「バベルの塔の出来事」(創世記11章)以来、人間に与えられている言葉が、罪によって誤用され、他者を傷つけ、争い、騙し、嘲り、本当に惨めな結果を生み出してきた。しかし、ペンテコステの日、様々な言語によって語られた内容は単なる混乱や分裂では終わらなかった。子どもや若者、壮年や高齢者という世代の違いがあったとしても、共に夢を見、幻を見て将来への希望を共にすることができた。違いを乗り越えて、互いに通じ合う世界が生み出されて行った。私たちも聖霊に導かれて行く時、言葉や文化の違いがあっても、神に愛されている一人ひとりであることを知らされ、共に生きることができるのだ。