一人ひとりを喜び、共に生きる教会

先週、嬉しいことに病から快復された方が4か月ぶりに礼拝に出席された。礼拝前に、皆さんがその方のもとに行って、共に喜ぶ姿を見て、今年度の主題「一人ひとりを喜び、共に生きる教会」がごく自然と実践されていることに感銘を受けた。この日の来ることを、皆で祈り合ってきたので、我が事のように嬉しかったと思う。

パウロは、教会を「キリストの体」に例え、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」Ⅰコリント12:22と語る。それは、パウロ自身が病という弱さを経験する中で、助け合い、労わり合うことによって、愛が深まったことを身に染みて感じたからだろう。誰でも健康でありたい、強くありたいと願う。しかし、病や弱さがあることによって、むしろ、主の慈しみを味わい、人の痛みがわかり、人にやさしくなれるものだ。だからこそ、私たちは自分の弱さや欠点を知る必要はあっても、自分の弱さを自分だけで背負い、自分の欠点を責める必要はまったくない。

星野富弘さんの詩の中にも、そのことがよく表されている。

よろこびが集ったよりも 悲しみが集った方が しあわせに近いような気がする
強いものが集ったよりも 弱いものが集った方が 真実に近いような気がする
しあわせが集ったよりも ふしあわせが集った方が 愛に近いような気がする

苦しみは分かち合えば小さくなり、喜びは分かち合えば大きくなることを経験する。一人の苦しみや喜びをわが苦しみや喜びとし、全ての苦しみや喜びを共にする、それが教会である。それは教会の中だけでなく、社会に対しても言えることである。ディートリヒ・ボンヘッファーは、「教会は、他者のために存在するときにのみ教会である。教会は、一般的な生活の問題や重荷を、支配することによってではなく、助け、奉仕することによって、共に負うのである。」と獄中で書き残した。ユダヤ人への迫害(現在ではガザの人々)に対し見て見ぬふりをするなら、それは教会の名に値しない、自分と異なる他者を排除する宗教から180度の方向転換を、ボンヘッファーは迫った。

毎週の祈祷会で、「ガザの惨劇を一刻も早く止めてください。尊い命が毎日のように失われているのです。」と祈りのリクエストをする方がいる。その祈りに導かれるように、皆で心を合わせて祈る。主こそ、私たちと共に苦しみ、共に喜んでくださるお方である。「イエスこそ主である」と告白して歩む私たちは、主に倣って、「一人ひとりを喜び、共に生きる教会」として、一緒に生きることを喜んでいきたい。