詩編に親しむ

「聖書日課」は先週より、聖書の中で一番長く、150編から成る「詩編」に入った。詩編は、へブル語で「テヒリーム」と名付けられ、「賛美の歌」という意味である。実際に詩編を読んでみると、賛歌というよりも、詩人たちの信仰生活を綴った日記のようである。そこには神と共に歩む人が体験するさまざまな感情が、生々しく描かれている。喜びや感謝の心だけではなく、憤りや恐怖、後悔や失望した心によって記された詩編も数多くある。そして、さまざまな状況の中でどのようにして神に信頼し、畏れる心を持ち、主に希望を持つことができるのかが記されている。

詩編全体は1~41編、42~72編、73~89編、90~106編、107~150編の5つの部分から成り、各巻の終わりに頌栄(神をほめたたえる言葉)が記されている。内容や作者ごとに数編の歌集が捕囚後にまとめられ、150編へ編纂された過程で、「モーセ五書」にちなんで五つの部分に分けられたと考えられている。

作者については、ダビデの名を冠した詩編が73もあるが、これらの詩編の中で、実際にダビデにさかのぼる詩は少ないと考えられている。ダビデは旧約時代の最も偉大な王であり、琴を奏でることに長けていたため、古い時代の詩人は、高名なダビデの名を借りて詩を残すために、ダビデの詩が多く収められたと見られている。

詩編のギリシャ語「プサルモイ」には、「弦楽器を指で弾く」という意味がある。古代のイスラエルの礼拝において、これらの詩編が楽器の伴奏を伴って詠唱されていたことを示唆している。実際に詩編の見出し部分を見ると、「指揮者によって。伴奏付き。賛歌。」など、演奏指示が付されている。但し、演奏法は現在では失われてしまったため、実際にどのような音楽だったのか私たちには知る由もない。

新約聖書には、旧約聖書からの引用が283回あるが、そのうち詩編からは、実に116回もある。この中には、主イエスの受難や復活、聖霊の授与を示す内容が含まれている「メシア詩編」があるため、初代教会の人々は、このような詩編を、主の働きを預言する詩編として歌い継ぐ。(エフェソ5:19。コロサイ3:16参照)

詩編は、礼拝において、祈祷文として唱え、賛美歌として歌われてきた。現在も、詩編を基に新たな賛美歌が作られている。マルティン・ルターは詩編を「小聖書」と呼んだが、聖書全体に含まれる信仰が、情感を伴って簡潔にまとめられている。詩編に親しむことによって、信仰に生きることが幸いなことであると教えられるだろう。