「一人ひとりを喜び、共に生きる教会」になるには? 

外国人としてこの国での生活の中で、理解しにくいことが二つがある。その一つ目は、感情の表現が苦手な文化である。もう少し詳しく言うと、好きな感情や嬉しい事、悲しいことを他の人に伝える表現に慣れていないように見える。例えば、夫婦の間でも相手に、“好きだ、ありがとう、愛してる、可愛い、格好良い”などの表現はそんな気持ちになった時にすぐに相手に伝えればいいのに、”男はそんなこと言えない“とか”言わなくても分かるだろう“と思ってしまうように見える。
 普通の時より人が可愛く見えた時に、”可愛いね!“と表現すると相手の気分もよくなるし、その表現に対する回答として、”あなたも格好いいよ“と嬉しい言葉を聞くこともあるのに、そういう表現に慣れていないように見える。人は表現しなければ相手が自分の気持ちを知ることができないと思う。
 二つ目は、職場生活で経験した本音と建て前も理解しにくい部分である。前の会社での業務以外にもプライベートな話までしていた同僚だったので、私は仲間だと思っていた。開発業務についての打ち合わせがあり、その打ち合わせ後、その同僚に、「これはこうしたらどうだろう?」と私の意見を伝えた。数日後、上司から、「あなたがこれはこうすべきだとかあれはこうすべきだと言ったそうですが、どんな意図で言ったのか説明しろ」と言われて、戸惑った記憶がある。どんな人にどの部分まで言っていいのか言ってはダメなのか、区別ができず、悩んだことがある。
 私から見た視点で、こんな文化は社会的にある状況によって、「こうしなければならない」という暗黙的なルールがあるからではないだろうか。多様性の時代に画一的にされているように見えることもある。私の意見ですが、このようなルールは相手に対しては配慮深い文化から生まれたのではないかなぁと思う。
 2025年には日曜日の朝、「〇〇さん、髪切ったね?」「〇〇さん、疲れているように見えるが、無理しないでください」「〇〇さん、先週は誕生日だったよね、おめでとう!!」「〇〇さん、今日の服装が似合うね」と挨拶するのはいかがでしょうか?お互いに積極的に表現し合い、深いコミュニケーションと分かち合いが溢れる教会になることを祈る。
 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマの信徒への手紙 8章28節