「馬小屋の中で家畜たちに見守られて眠っているイエス様」という、メルヘンのようにほのぼのしたクリスマスカードによく出会う。けれども、なぜ馬小屋のような場所で生まれなければならなかったのか。ルカによる福音書では、「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊る場所がなかったからである。」2:6-7と記す。口語訳聖書は、「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」と訳す。この「客間」とは私たちの住むこの世界を表している。つまり、私たちのこの世界はどこにも主を迎える「余地」を持たなかった。ルターは面白い言い方をしている。「泊まる場所がなかったって?そんなことはない。部屋はあったさ。でも、誰も空けようとしなかっただけのことさ。」この世界は主を迎えるべき客間は他のもので埋め尽くされ、まさに「居場所がない」状態で主は生まれた。
最近、「居場所」という言葉をよく聞く。「ありのままの自分でいられる、素の自分を隠さずに出せる場所」という意味だが、この居場所を見つけることに困難を覚える人が少なくない。SNSなどで絶えず誰かと繋がっているのに、他人に合わせているだけのような気がして寂しさを感じる。結局、自分は独りぼっちなんだという孤独感から、自分は誰からも認められていない、誰からも必要とされていない、誰からも愛されていないと感じる。居場所がないというのは本当に辛いことである。クリスマスイベントで賑わうこの季節ほど、その寂しさを一層強く感じるのかも知れない。
けれども、主ご自身が文字通りの意味で、「居場所がない」状態で生まれた。このことは、どのような状態にある人にも、「あなたは決して独りぼっちではない。私はあなたと共にいる」と伝える。主は自らこの地上に生きて、「居場所がない」人になられた。「居場所がない」人を救い、助けるためだった。私たちもまた主に従って、「居場所がない」人となり(安住し、居座り、自己満足せずに)、「居場所がない」人のために生きる歩みを指し示される。教会は、また一人ひとりのキリスト者は、そのような歩みへと召されている。「あなたは大事な存在なのだ」「あなたが必要なのだ」と、ありのままを受け入れる、そんな居場所になることが教会に求められている。残念ながら、教会の歩みは、障がい者やハンセン病患者、被差別部落出身者や性的マイノリティーの人達などを差別したり、排斥してきた歴史がある。「神様が共におられるから、ここにいていいんだよ」と、どんな人にも「居場所になれる教会」を目指していきたい。