今日からアドベントを迎えた。アドベントとは、ラテン語で「到来する」という意味である。救い主イエス・キリストの到来を待ち望むことがアドベントの意味である。救い主が来られたのは、私たちを罪から救い出すためである。罪の赦しという恵みを与えるために、主は私たちの罪の只中に来られ、私たちの罪と戦ってくださる。私たちを滅ぼすためではなく、私たちを生かし、平和を与えるためであった。
主の平和は、私たち人間社会においてだけではなく、他の被造物にも及ぶことが聖書には語られる。「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」イザヤ11:6‐9
現実の世界では、狼は決して子羊と共に暮らすことはなく、弱肉強食の中で自然淘汰されていくのが世の常である。このイザヤ書の言葉は、世の常識からはずれているように見えるが、一体何を語っているのか。この言葉は明らかに、新しい創造を描いている。救い主の誕生は、元々共存など出来ないと思われている両者の間に新しい平和な世界をもたらす。ここで注目したいことは、平和の王の上に「主の霊がとどまる。」11:2ことである。平和の王の源泉は「主を畏れ敬う霊に満たされる。」11:3ことから始まる。そして、被造物も同じように、「大地は主を知る知識で満たされる。」11:9 という。この状態こそが平和の源泉だと、イザヤ書は語る。それはつまり、主を畏れ敬う霊に満たされない限り、平和は実現しないということである。クリスマスとは、神の霊の招きである。その招きとは、報復の連鎖の中でしか生きられなくなっている私たちが変えられ、新しく創造されるという平和への招きである。
そこから私たちは、クリスマスを迎える姿勢を見つめ直したいと思う。一時的なクリスマス停戦ではなく、恒久的な休戦をもたらすためには、神の霊に満たされることによって新しく創造される以外にはない。「地には平和、御心に適う人にあれ。」ルカ2:14とは、平和は神の霊に満たされる人々の間に生まれることを意味する。神の霊に満たされるためには、救い主を心にお迎えすることである。「イエス・キリストが今私の心に生まれた その愛の深さに気づくこのクリスマス」新生讃美歌180と心から喜び歌えるように、救い主を信じて、神の霊に満たされ、平和の道を歩みたい。