東京バプテスト神学校の公開講座を聴講生として受講するようになって早や4年、難解で無理と思いつつ、得る恵みの大きさに改めて気づかされます。
今回はボンフェッファーの「共に生きる生活」とバルトの「教会教義学要綱」を小海基先生を講師に学ぶ機会が与えられました。前書からは、共に生きるとはキリストと共に生きること、同信の友と切磋琢磨して共に生きることの大切さを教えられました。後書からは、改めて教会とは何か教えられました。教会は神さまの招集によって集められた人たちの共同体であること、教会の統治者はイエス・キリストであること、その使命は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16章15節であること。その使命を果たしていくためには、各々遣わされた教会で忠実に責任をもって奉仕(礼拝その他の)に励むことというのです。
何か当たり前のように思いますが、いま日本の教会の置かれた現状を見るに(高齢化、会員数の減少等々)、つい後ろ向きに考えがちです。現状がどうあれ、教会の使命に変わりはありません。バルトは教会は「使徒的教会」というのです。使徒たちの働きを今に受け継ぐ共同体としてとらえるのです。今私たちは毎週「使徒言行録」の説教を聴いています。使徒たちを動かした聖霊が今の私たちにも注がれています。バルトは完璧な教会も完璧な信徒もいないと言います。各々欠点を持ちつつ、自分に与えられた役割を果たしていくその重要性を繰り返します。イエス・キリストの御心は聖書の御言葉にあります。聖書をうたたねさせてはいけないと。また、蝸牛(かたつむり)であってはいけないとー(蝸牛は自分の家を背負い、自分の生活に満足しているように見える、気が向いた時だけ触覚を出して外界と接する。要するに自己中心的な信仰生活という意味でしょうか)―。すごい例えです。実際の蝸牛には申し訳ないですが。
福音宣教の業というと、教会に沢山の人々を招き御言葉を語るのがこれまでの主流でした。しかし、これからは社会の中で様々な困難を抱えている人たちに寄り添うこと。教会から世に出ていく宣教姿勢が問われていると、講師の小海先生は言われます。イエスさまも会堂だけでなく、街や村を回られました。しっかりと教会につながりつつ、遣わされた場所で神さまの栄光を現していけたらと願います。