近年、母の日を「家族の日」として祝う教会もある。母親を亡くした子ども、母との関係に痛みを抱える人、複雑な家庭環境にある人々への配慮からである。その思いは大切に受け止めたい。しかし上尾教会は、あえて「母の日」として礼拝をささげている。母の愛を通して、神の愛をより深く味わいたいと願うからである。
作家の遠藤周作は、「もし神が“母なる神”であったら、もっと多くの日本人にキリスト教は受け入れられたのに」と語った。彼は、日本人の宗教感情と、キリスト教が伝えてきた“父なる神”のイメージの間にギャップがあると考えた。父なる神は「正義」や「裁き」をもたらす存在として、日本人にはどこか「冷たく」「遠い」神に感じられるのではないか。 一方で、日本人の宗教感情には「包み込む」「許す」「寄り添う」「抱きしめる」といった母性的な慈しみを求める傾向が強い。だからこそ、弱さを抱えた人間を抱きしめる“母のような神”の姿の方が、日本人の心に響くと遠藤周作は考えたのである。
実は聖書にも、母性的な神の姿が確かに描かれている。 「母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める。」イザヤ66:13。 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」マタイ23:37。遠藤周作は、この“母性的な神”の側面が日本宣教において十分に語られてこなかったことを問題視した。
母の愛は、私たちにとって最も身近な“無条件の愛”の姿である。わが身を削っての妊娠期間からの出産と、夜中も赤ん坊を抱いて、ミルクを与える母親。父親には真似しきれない“母性的な愛”がある。その尊さに心から感謝したい。しかし同時に、母の愛にも限界がある。それは、自分の子にだけ向けられる愛だからである。
しかし、神の愛はすべての人に向けられる愛である。神の愛は、どんな時も、どんな状態でも、変わらず私たちを支える永遠の愛である。母の愛を思い起こす時、私たちはそこに“神の愛の影”を見ることができる。母の愛を通して、神の愛の一端を味わうことができる。バルトは、母の愛を「神の憐れみの最も身近な形」と呼ぶ。
今日、私たちは母に感謝すると共に、その母の愛の源である神の愛に目を向けたい。 「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し 変わることなく慈しみを注ぐ。」エレミヤ31:3。この神の愛に支えられて、私たちもまた、誰かを愛し、支える者となりたい。

