上尾教会は2025年度を迎えたが、どのような歩みになるだろうか。今、エレミヤ書を聖書日課で学んでいるが、そこに約束されたように、「神による平和の希望」が実現することを期待したい。それは、エレミヤが紀元前627年に南ユダで預言の活動を開始した頃、バビロン捕囚が起こった。民は一刻も早い解放を願った。ところが、エレミヤを通じて示された神の御心はバビロンでの生活が70年に及ぶもので、捕囚の民にとってとても受け入れられる話ではなかった。エレミヤは背神の罪を犯した民に神の悲しみを伝えると同時に、バビロンに捕らえられた民に、希望を伝え続けた。そして捕らえられた先で、畑を作り、家を建て、子どもを育てるよう指示した。エレミヤは、主により頼めば平和を得ることができることを示した。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」29:11
将来に向けて、私たちは色々な計画を思い巡らす。しかし、実際のところ人には一瞬先のことさえわからない。人の歩みを確かにするのは、ただ主なる神である。私たちの歩む道は、思うようにいかないかもしれない。しかし、ただ主により頼めば、主が捕囚の民に将来と希望の計画を示して救ってくださったように、私たちの歩みも最善の道に導いてくださる。死すらも、永遠の命への門出として勝利に導いてくださる。私たちの人生にも、私たちの教会にも、神が「平和の計画」を立てておられる。だからこそ、今いる場所で落ち着いて生活することが求められている。
渡辺和子さんは、『置かれた場所で咲きなさい』という本の中で、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。どうしても咲けない時もあります。・・そんな時には・・根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」と書いている。 「根を下へ下へと張る」とは、私たちにとって、エレミヤが言う、神を信じる生活をすること、隣人と平和に過ごすように心がけることである。残念ながら、自分でも気づかない内に、人を傷つける言葉を発したり、行為をしてしまうことがある。主の御心が何であるかを知り、身につけ、自分自身も隣人も大切にして、平和に過ごしたい。主の十字架によって、神の愛が示された。主が私たちのために「平和の計画」を成し遂げてくださったことに、目を注いで今年度も歩みたい。