受難週を黙想して

今週は、主が十字架の道を歩まれた「受難週」である。黙想して、主に従いたい。

【日曜日】主は人々の歓呼の声に迎えられて、ロバの子を用いて、エルサレムに入城された。ロバの子は、「主がお入り用なのです」との呼びかけに素直に応えて、自分を差し出した。そして、主をお乗せする光栄に与った。だとしたら、私たちにも「主がお入り用なのです」と声をかけて頂き、主の栄光のためにお役に立ちたい。

【月曜日】主が都に入って、最初にされたのが宮きよめである。主は神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた商人を追い出され、神殿が「祈りの家」であることを宣言された。主は神殿の本来あるべき姿を取り戻された。私たち自身、神の栄光を現す神の神殿として、本来のあるべき姿を取り戻し、祈り合う群れでありたい。

【水曜日】主がベタニアのシモンの家で食事をしていた時、マリヤが高価なナルドの香油を主の頭に注ぎかけた。そんなに献げたらもったいないと、囁く声が聞こえてこないだろうか。しかし、み言葉に耳を傾けたマリアは、今何をすべきかを悟り、主に愛と献身の思いを込めて、ナルドの香油を惜しげもなく注ぐことが出来た。

【木曜日】最後の晩餐、過越の食事の最中に主は弟子たちの足を洗った。それはしもべの姿として模範を示しただけでなく、救い主として十字架の血潮をもって私たちの罪と汚れを洗ってくださることのしるしである。だとしたら、主の御前に罪と汚れを差し出して、「互いに足を洗い合う(愛し合う)」者とさせて頂きたい。ゲッセマネにおいて、「この杯(十字架の死)をわたしから取りのけてください」と主は祈られた。深い苦しみの中で、身もだえる一人の人間としての主の姿が、ここにはある。

【金曜日】聖金曜日(Good Friday)と言い、主の十字架と死を覚える日である。この十字架によって、神の贖いの業が完成して、人々と神の間を分けていた神殿の幕が真っ二つに裂けた。主の十字架によって、人の罪は赦され、敵意という隔ての壁が取り壊された。主の十字架こそ、神と人、人と人、を和解させる唯一の道である。

【土曜日】主は墓の中におられる。弟子たちは失望と落胆の中にいた。墓の入口には番兵が立ち、近づく者を遮っていた。しかし、主はよみに下って、捕らわれていた霊たちに宣教された。(Ⅰペトロ3:19⁻20)。主は、よみに下ることによって、死は終わりではなく、死は主の復活の勝利にのみ込まれたことを、高らかに宣言された。