ガリラヤで会おう

復活した主と私たちはどこでお目にかかることができるのか。若者(天使)は、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」マルコ16:7と告げた。弟子たちは「ガリラヤ」で、復活した主とお目にかかることができると言われた。ガリラヤは、弟子たちの故郷である。彼らの生活と働きの場所であり、泣いたり笑ったりした場所である。主と出会い、主の御言葉に養われ、主と一緒に歩んだ場所、思い出がいっぱい詰まった懐かしい場所である。

ただ同時に、「ガリラヤ」という地名には「辺境」という意味があり、「異邦人のガリラヤ」とい言われるほど、異邦人が多く住み、それ故、疎外され軽蔑されてきた土地でもあった。主はそのガリラヤのナザレ出身であった。そして公の生涯の大部分をガリラヤで活動された。貧しく、軽蔑され、それ故、ユダヤ人から見向きもされない人々が暮らすガリラヤで、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ1:15と、主は宣教の第一声をあげるために、この地を選ばれた。

そのガリラヤに、復活の主は先に行かれ、そこで待っていると言われた。「先に」という言葉は、時間的に先にという意味に加えて、「先導する」という意味も含まれる。人間の問題の只中に、復活の主は先立って行かれる。その復活の主の後に従っていくから、私たちは、問題が渦巻くこの世にあっても、生きていけるのである。

そして、「そこでお目にかかれる」と言われた。何と素晴らしい恵みの言葉ではないか。特別な場所ではなく、普段の生活の場所であるガリラヤで、復活の主は私たちと出会ってくださる。私たちにも、主とお目にかかることができる「ガリラヤ」がある。それが、毎週の礼拝である。この礼拝において、主は私たちに先立ち、私たちと出会ってくださる。復活の主に出会うからこそ、不安や恐れがあったとしても、「あなたがたに平和があるように。」ヨハネ20:21と、主の深い慰めの言葉を聴くのである。

本来であれば、「ガリラヤに帰れ」というべきところであった。しかし、主は「帰れ」ではなく「行け」と言われた。復活の主に出会った者は、新しい使命を与えられて、そこから遣わされて行く。あらゆる人間の問題に満ちていたガリラヤへ「行け」と主は言われた。それは、今日の世界に、福音を携えて出ていくことでもある。主は「ガリラヤで会おう」と、今日、私たちを招いている。この恵みの言葉を信じ、「私たちのガリラヤ」で共に歩んでくださる復活の主と共に生きる者でありたい。