青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ

先週のイースターの日に、嬉しいことがあった。孫の喜々(きき)が瑞穂教会でバプテスマを受けた。喜々は生まれた時、600gに満たず、何度も命の危機に直面した。その喜々が小学3年生になり、自分の言葉で信仰告白をして、牧師である父親からバプテスマを受けている姿をビデオで観て、感無量であった。両親の喜びはもちろんのこと、主の喜びは、どれほど大きいものか。喜々が霊の誕生日を迎えたからである。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」コヘレト12:1。このみ言葉は、親の願いであり、教会の祈りでもある。子どもが、元気に健やかに育つようにというだけでなく、何よりも神に喜ばれる人生を歩んでほしいと願う。このみ言葉には続きがある。それは、若い時から神のことに心を留めて生きていれば、幸せを手に入れることができるとか、どんな悩みや苦しみにも打ち勝つことができるとか、そんな良いことが起こると記されているのではない。むしろ、「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」と記されている。これは心が明るくなるような言葉ではない。「苦しみの日々」というのは、単に大人になるということではなくて、「年を重ねること」老いることである。では、なぜ老いることが苦しみなのか。それは、体が衰え、いつの日か、死を迎えるからである。

また、コヘレトの言葉には、幾度も「空しい」という言葉が繰り返されている。どうして神を信じる人が、「空しい、空しい」と繰り返すのか。この「空しい」という言葉は、「束の間」とか「一瞬」という意味を持っている。年を重ねて、過去を振り返る時、「あっという間の人生だった」と思うのではないか。自分の抱く夢が実現することを追い求めながら、志半ばに終わってしまうことの多い人生ではないか。

しかし、コヘレトは、「空しい」「あっという間だった」と言って、人生を諦めてはいない。神から与えられた地上の命には限りがあるからこそ、賢く真剣に生きるようにと、呼びかけている。「空しい」と繰り返される言葉は、「今を生きろ!」というメッセージでもある。マルティン・ルターは、「たとえ明日、世の終わりが来ようと、私は今日、りんごの苗を植える。」という有名な言葉を残した。神が与えてくださった人生最後の日まで、精一杯生きる、最後の一日でさえも、命を注いで生きる、それが、「青春の日々にこそ」主を信じる人の生き方だと言う。「すべてに耳に傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』 これこそ、人間のすべて。」コヘレト12:13