私たちがすべき終活とは

私たちは毎年、召天者記念礼拝において、先に主のもとへ帰った方々を思い起こす。彼らの歩みは、ただ「人生が終わった」という出来事ではなく、復活の主に導かれた信仰の旅路の完成であった。その姿を覚える時、私たちは「死の備え」とは何か、私たちがすべき「終活」とは何か、そのことを静かに問い直すことになる。

「終活」と聞くと、財産の整理や葬儀の準備、身の回りの片づけを思い浮かべる人も多いだろう。もちろんそれらは大切なことである。しかし、クリスチャンにとって終活の中心は、もっと深いところにある。それは、突然訪れる死に備えることだけではなく、復活の主を信じて、信仰の道を歩み続けることである。

私たちの救いは、私たちの努力や行いによって完成するものではない。主イエス・キリストが死を打ち破り、復活してくださったゆえに、私たちは死を越えて永遠の命へと招かれている。だからこそ、死の備えとは、まずこの方を信じることから始まる。「主よ、あなたが私の救いです。あなたが私を迎えてくださいます。」 この信頼こそが、最も確かな終活である。

復活の主を信じる者は、死を終わりとしてではなく、主のもとへの凱旋の時、新しい命の始まりの時として受け止めることができる。だからこそ、私たちは残された日々を、恐れではなく感謝と希望をもって歩むことができる。信仰の道を歩むとは、毎日の祈りを大切にし、御言葉に耳を傾け、与えられた人々を愛し、和解を求め、感謝を伝えながら生きることである。それは「いつ召されてもよいように整える」というより、「主に出会うその日まで、愛を完成させていく歩み」である。

召天者記念礼拝は、先に天に帰った方々の信仰を思い起こすと同時に、私たち自身の歩みを整える機会でもある。主にある者の死は敗北ではなく、勝利である。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」Ⅰコリント15:54-55。だからこそ、死には、涙はあるが、絶望ではない。悲しみはあるが、希望が消えることはない。復活の主が共におられるからである。

私たちがすべき終活とは、復活の主を信じ、信仰の道を死に至るまで忠実に歩むことである。それが、最も確かな備えであり、遺される家族への最大の贈り物であり、主の前に差し出すことのできる私たちの信仰の証しである。

「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネ11:25