終わりは始まり

今年も主の復活をお祝するイースターを迎えた。皆さんは死人が復活すると聞くと、そんな事があるはずがないと疑うのではないか。理解しがたい事柄である。けれども、2千年前に主は復活して、弟子たちの前に現れてくださることによって、死んで終わりではない、死は始まりであるということを示してくださったのある。

主が十字架にかかって亡くなり、その亡骸が大きな洞穴のお墓に葬られた。三日目の朝、主の遺体を葬るために女性たちが墓に入った。するとそこにあるはずの主の遺体がなかった。代わりに若者(天使)が女性たちに、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」マルコ16:6と伝えた。しかし女性たちは、天使が告げた言葉の意味を、すぐには受け止めることができなかった。彼女たちは震え上がり、誰にも何も言わなかった。主の復活は、想像もつかない、すぐには信じられないことだった。

では、主はどこに行かれたのか。天使は、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」マルコ16:7と告げた。ガリラヤは、弟子たちの故郷であり、彼らの生活と働きの場所であり、思い出に満ちた場所であった。ただ同時に、「ガリラヤ」という地名には「辺境」という意味があり、「異邦人のガリラヤ」とい言われるほど、異邦人が多く住み、それ故、疎外され軽蔑されてきた土地でもあった。主はそのガリラヤのナザレ出身であった。そして公の生涯の大部分をガリラヤで活動された。貧しく、軽蔑され、それ故、ユダヤ人から見向きもされない人々が暮らすガリラヤで、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ1:15と、主は宣教の第一声をあげるために、この地を選ばれた。

主は「そこでお目にかかれる」と言われた。何と素晴らしい恵みの言葉ではないか。特別な場所ではなく、普段の生活の場所であるガリラヤで、復活の主は私たちと出会ってくださる。私たちにも、主とお目にかかることができる「ガリラヤ」がある。それが、毎週の礼拝である。この礼拝において、主は私たちに先立ち、私たちと出会ってくださる。復活の主に出会うからこそ、不安や恐れがあったとしても、「あなたがたに平和があるように。」ヨハネ20:21と、主の深い慰めの言葉を聴くのである。

主の復活は、終わりではなく、始まりである。神は私たちを、あらゆる人間の問題に満ちていたガリラヤへ行けと招いて、復活の主と出会わせてくださるのである。

今年も主の復活をお祝するイースターを迎えた。皆さんは死人が復活すると聞くと、そんな事があるはずがないと疑うのではないか。理解しがたい事柄である。けれども、2千年前に主は復活して、弟子たちの前に現れてくださることによって、死んで終わりではない、死は始まりであるということを示してくださったのある。

主が十字架にかかって亡くなり、その亡骸が大きな洞穴のお墓に葬られた。三日目の朝、主の遺体を葬るために女性たちが墓に入った。するとそこにあるはずの主の遺体がなかった。代わりに若者(天使)が女性たちに、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」マルコ16:6と伝えた。しかし女性たちは、天使が告げた言葉の意味を、すぐには受け止めることができなかった。彼女たちは震え上がり、誰にも何も言わなかった。主の復活は、想像もつかない、すぐには信じられないことだった。

では、主はどこに行かれたのか。天使は、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」マルコ16:7と告げた。ガリラヤは、弟子たちの故郷であり、彼らの生活と働きの場所であり、思い出に満ちた場所であった。ただ同時に、「ガリラヤ」という地名には「辺境」という意味があり、「異邦人のガリラヤ」とい言われるほど、異邦人が多く住み、それ故、疎外され軽蔑されてきた土地でもあった。主はそのガリラヤのナザレ出身であった。そして公の生涯の大部分をガリラヤで活動された。貧しく、軽蔑され、それ故、ユダヤ人から見向きもされない人々が暮らすガリラヤで、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ1:15と、主は宣教の第一声をあげるために、この地を選ばれた。

主は「そこでお目にかかれる」と言われた。何と素晴らしい恵みの言葉ではないか。特別な場所ではなく、普段の生活の場所であるガリラヤで、復活の主は私たちと出会ってくださる。私たちにも、主とお目にかかることができる「ガリラヤ」がある。それが、毎週の礼拝である。この礼拝において、主は私たちに先立ち、私たちと出会ってくださる。復活の主に出会うからこそ、不安や恐れがあったとしても、「あなたがたに平和があるように。」ヨハネ20:21と、主の深い慰めの言葉を聴くのである。

主の復活は、終わりではなく、始まりである。神は私たちを、あらゆる人間の問題に満ちていたガリラヤへ行けと招いて、復活の主と出会わせてくださるのである。