私は、誰かが暮らしていた重要文化財になっている建物を巡るのが好きだ。その昔、歴史ドラマで見るような服装の家人が行き交い、その人生が繰り広げられていたんだなぁと空想すると、私が同じ空間に居ることがとても不思議に思えてくる。そんな建物の一つ、上野公園近くの「旧岩崎邸」は、かつて好きだったドラマ「謎解きはディナーのあとで」のロケ地にもなったので、私には特に魅力的だった。
過日、そんな「旧岩崎邸」にまつわるもう一つの歴史を知って私はとても驚いた。
明治11年、三菱財閥初代の岩崎弥太郎が屋敷を構え、長男・岩崎久弥へと引き継がれたこの場所で、久弥の長女・美喜は何不自由なく成長した。お嬢様というよりは快活な女性であったらしい。美喜はクリスチャンの澤田廉三と結婚後、自身もクリスチャンとなった。戦後、電車に乗っていた美喜の膝に網棚から風呂敷包みが落ちてきた。丁寧に包まれたそれは、へその緒がついた黒い肌の赤子の亡骸だった。当時、米兵と生きるために身を売っていた日本女性との間に望まれぬ子どもがたくさん生まれていた。膝の上の哀しい戦争の爪痕に衝撃を受けた美喜は「この子達の母になれないか。」という神様からの静かな、しかし力強い召命を聞いたと記している。戦後の財閥解体により岩崎家の家屋財産もほぼ没収、行き場のない混血孤児を引き受ける事業を立ち上げるのは困難を極めたが、1948年、孤児院エリザベス・サンダース・ホームを設立する。またたく間に、預けられていく子、見つかるように植え込みに置かれている子達でいっぱいになった。美喜は私財を投げ打ち、寄付を募り、必死で子ども達のミルク代や生活費を集めてまわるが、米国側にとっては触れられたくない恥部、日本側からは「敵国の子どもを養うのか」という反感を持たれ、どっちを向いても風当たりは強かった。しかし、持ち前の行動力と様々な出会いにより、やがてエリザベス・サンダース・ホームから2000人を超える孤児が巣立っていったそうである。今でこそ外国の方と日常を過ごすことは珍しくないが、当時の肌の色や顔立ちの違いの偏見は想像に難くない。しかし澤田美喜の、混血孤児達に注がれた溢れんばかりの愛情はどこにも隔ての壁はなかった。もし、彼女が現代を生きていたら、さらに複雑化している「違い」に、その愛情はやっぱりどこにも隔てを造らず溢れていたであろう。彼女の姿に、主が望まれる平和を見た思いであった。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。(中略)十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
エフェソの信徒への手紙2:16

