ボンヘッファーは、教会が内向きになり、「礼拝を守ること」や「制度を維持すること」だけに閉じこもることを厳しく批判した。彼は、ナチスの暴力の中で、教会が沈黙することを罪と考えた。彼は、「苦しむ者の声に耳を塞ぐ者は、神の声にも耳を塞ぐ」と言って、告白教会を立ち上げ、迫害されるユダヤ人のために立ち上がり、最終的にはヒトラー暗殺計画に関わるほど、社会の中での責任を重視した。ボンヘッファーは、教会を「世から分離した清い共同体」ではなく、「世のただ中で、世のために存在する教会」であり、「教会は、ただ他者のために存在する時にのみ、教会である」と語った。私たちは、この社会が差別や偏見、敵意や戦争によって、人権やいのちを軽んじていく中で、彼の語った言葉を重く受け留めていく必要がある。
日本バプテスト連盟が、「公害問題」「部落差別問題」「日韓・在日問題」「靖国神社問題」「性差別問題」「障がい者問題」という「6特別委員会」を設置して、長年差別と人権の問題に取り組んできたのは、まさにボンヘッファーが言う「他者のために存在する教会」でありたいと願ったからである。これらは単なる委員会ではなく、 日本バプテスト連盟が「福音とは何か」を社会の痛みの中で問い続けてきた証しである。まさにこの6特別委員会の精神は、私たちの教会は、この社会に見られる差別や偏見、敵意や分断に無関心であってはならないということを教えている。
そのために、私たちに求められていることは、いろんな人と出会っていくことである。特に様々な差別や偏見は、その人に出会うことによって気づかされていく。私も元ハンセン病患者との出会い、狭山事件で無期懲役となった石川一雄さんとの出会い、LGBTQの当事者の平良愛香先生との出会いなどを通して、自分の中に無意識に持っていた差別や偏見を気づかされ、変えられていった。偏見は“知らないこと”から生まれる。距離があると、相手を「外国人」「障がい者」「LGBTQ」といった「カテゴリー」で見てしまいがちである。しかし、実際にその人と出会い、話して、相手のことを知っていくと、神に愛された尊い存在であると気づかされる。
相手の痛みや喜びに触れると、心が動く。出会いは、相手の人生の断片に触れること。その瞬間、「この人のために、私はどう生きるべきか」という問いが生まれ、私たち自身が変えられていく。聖書も“出会いによる変化”を語っている。主はいつも、境界線の外側にいる人に近づき、その人の名前を呼び、人生を変えてくださった。

