日曜日に礼拝に出席し、次の日曜日を迎えるまでの間、皆さんはどれだけの外国人と話しますか?電車の中や街で外国の人を見かけることは多くなっても、話す機会は多くないのでは…と思います。私も、いまの副業(日本語学校講師)を始めた昨年7月以前はそのような状況でした。現在は週2回、初~中級の外国人留学生クラスを担当しており、数えてみれば毎週15か国の生徒さんと関わるようになっていました。
ロシアの学生が在籍するクラスに、ウクライナの学生が加わった7月には少し戸惑ったが、あくまでもここは学びの場、基本的に政治的要素は一切排除しカリキュラムを進める。中国人学生も頑張っているし、初級クラスではアメリカ人とイラン人の学生が一緒に勉強している。ネパールやパキスタンの学生は母国語ではない何かの共通語で会話し、多くの学生の雑談は日本語半分英語半分、人間のコミュニケーション能力には驚かされる。いまやスマホに向かって自国語を話せば、かなりの精度で他国語に翻訳してくれる時代であるものの、既に経済大国から落ちかけている?国に来て、それもひらがな、カタカナ、漢字と文字からして難解な日本語を学ぼうと、そして真面目に進学、就職しようと頑張っている若い人がいるのは、有難いことだと思う。
創世記、バベルの塔の記事では、「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。…我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。』」 ここから人々が全地に散らされた…とある。国境という線があり、言語が違うから理解しあえないのか?国という単位で権力者を決めるから、為政者同志が自己顕示と利権のために争いを起こそうとするのか?
「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ書2章4節)人間には「戦うことの愚かさを学ぶ」ことはできないのだろうか。学んだはずの日本が、世界で7番目の軍事力を持つ国となり、憲法を変えようと目論む政治家はその時が来るまで爪を隠す。戦争体験を語ることのできる方は、もはやこの国には限られているが、一人として「もっと戦争すれば良かった」という声を聞いたことはない。国が国に向かって剣を上げる。それがどれだけ愚かなことか?体験者でなくとも理解できるはずである。
聖書では「もはや戦うことを学ばない。」と書かれている。なぜこの記述なのか?現時点で答えは思いつかないが、考え続けたいと思う。

