来た時よりも、きれいに!

総務委員会では、今年度も「来た時よりも、きれいに!」というキャッチフレーズを皆さんに心がけていただきたいと願っている。集会の後に、床にゴミが落ちたままだったり、使用したものを出したままだったり、収納ボックスに入れたままだったりすると、後から入って来る人は気持ちのよいものではない。そして、散らかったままでいると、だれもきれいにしたいという意欲が低下する。教会の植栽を小﨑さんが毎週剪定するようになってから、その中にゴミを捨てる人が少なくなった。きれいにしていることが、美観を保つ秘訣である。使用後は必ず元通りに片付けるとか、ゴミは気が付いたら拾うとか、日頃からお互いに気をつけたいものである。

それは見える所だけきれいにすればよいということではない。私の友人が能登半島で親の代からの繊維会社を引き継いだ。3年前にその友人を訪ねた際、彼は会社を経営するためにイエローハット創業者の鍵山秀三郎氏の下に行って教えを請うたことを話してくれた。鍵山氏は創業以来、トイレ掃除を50年以上継続し、それも素手、素足で行う。なぜ、トイレ掃除が大事か、頂いた鍵山氏の本にこう記されていた。

「社員の心を穏やかにするためには、まず職場環境をきれいにすることが大事。汚い環境の中で、彼らに“ちゃんとしろ”と言ったってできるわけがない。まず私が環境をきれいにしてから、伝えるべきことを伝えていこう、と。その第1番がトイレ掃除だった。」そして、会社前の道路掃除も毎朝しているとのこと。その教えに倣って、友人も社長になってからもトイレ掃除と会社前の道路の掃除をしている。それも素手・素足で。その姿勢に、リーダーは仕える者となることだと示された。

「地域に開かれた教会」として、教会の外もきれいにすることを心がけたい。教会前の道路にゴミが落ちていたら拾うことは、道行く人から喜ばれる。雪の日に交差点まで道路の雪かきをしただけで、ご年配の方の多い三井住宅の住民から歩きやすかったと言われた。地域の人々のために、教会が仕える姿ほど良き証はない。

「来た時よりも、きれいに!」とは、実は、私たちの心の内面に起こることではないか。教会に来て、礼拝を捧げることによって、主の救いにあずかり、心が清められて、主の証人としてそれぞれの所に遣わされる。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」Ⅱコリント5:17。主と結ばれる(信じる)人は、いつでもだれでも心がきれいにされる。