「賜物」とは逃げないと言うこと

折しも今日(2/7)は埼玉でも雪が降り積もった。被災した能登へ、金沢から4時間かけてボランティア活動にきた学生は、3時間の作業の後に4時間かけて日帰りすると報じられていた。寒かろうと頭が下がる。

同じく77年前、焦土と化した日本の国土に降り積もった雪を見て、人々の復興への思いに寄り添ったであろう詩人、永瀬清子の詩が思い出される。

「降りつむ」    永瀬 清子

かなしみの国に雪が降りつむ  かなしみを糧として生きよと雪が降りつむ

失いつくしたものの上に雪が降りつむ(一部分)

私は窓を開けて雪空を見上げた。とめどもなく雪の粒が追いかけてくる。午睡からさめると一面に庭が白くなり、暗くなり始めた街灯の下だけに雪粒が美しく走って照らされていた。音や色彩には反応が早いが、言葉や活字、数字に至ってはからきし弱く巻頭言の原稿提出を渋っていた私は、降りしきる雪に自分の弱さの上に降りしきる「賜物」という思いが重なった。

日々主のみ旨に適うように生きたいと願いつつ上尾教会に連なり、2回ほど主が用いてくださったと感じたことがある。それはなんと最も弱い数字に関わる場面で教会会計に関してであった。意見が取り上げられ、結果は想像を超えて教会の必要が満たされた。その場での発言が皆の祈りと御言葉への信頼で願い以上に超えて主が答えてくださったのである。まさしく空からとめどなく降りしきる雪のように、上から来たものであった。

「賜物」とはこうしてくると思った。降り積もった雪の下には焦土や被災の瓦礫が隠れているように、私たちの内には、生い立ちなどからくる闇との無意識の闘いや、他者から見ると危なっかしいほどの性格上からくる弱さが日々圧倒する苦しみの残骸がうず高く積まれている。しかし上からくる「賜物」で、主は僕として待っていたとばかり用いてくださる。上から降る賜物から逃げることはできない。苦難の僕、主は、死を超えて復活の命という賜物に変えてくださるのだから。

「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」エフェソ3:20