体の仕組みと教会

もう5年も前になりますが、加齢によって、両股関節の摩耗が激しく、人工関節を入れる手術を受けるため入院し、自分の体に起きる現象を経験することを通して、知識ではなく、体感し、理解する機会となりました。

体の外から入ってくる刺激に「痛み」があります。できれば避けたいものです。例えば注射をされる場合、消毒されたりすることで、適度な緊張と、心の準備ができて、落ち着いて受けることで痛みは軽減し、薬は効果的に全身を巡ります。針を刺された場所だけで受けるのではなく、全身で受けていることがわかります。もしこの「痛み」を事故や暴力と言う形で受けた場合はどうでしょう。相手を思いながら与える刺激ではないし、思いがけなく入ってくるので準備のないままその場所がより強すぎる形で受けてしまい、怪我や大事に繋がるのです。そんな時も「ああ!痛そうだねえ」と共感し、手を貸してくれる家族や仲間の存在は、一人で耐えることなく、痛みの軽減、体の回復に大きく影響しているのです。これがまして教会員の方々や、牧師先生ご夫妻によるものでしたら、共に担い、祈りの課題として共有してくださるので、主にあって、慰められ、癒されていきます。

もう一つ「代償機能」があります。足を上げ、前に出すには脳からの指令があって、手にも体幹にもバランスを取るなど役割があります。率先して働くのは大腿四頭筋。大きな腿の筋肉や大臀筋など臀部の筋肉です。それらは適度な大きさや形を保っていても、ちょうつがいの部品なる軟骨の古いものが消失していくばかりで、新しいものが造られず、機能することができなかったのです。しかし私は歩いていました。この時、普通なら協力する程度なのに、大活躍してくれたのが膝から下の前にある前脛骨筋です。それがわかったのは術後、歩く練習を始めるとひどく疲れたのが脛だったからです。患っていた間に筋力が低下していたので、「まだですか?」と悲鳴を上げていたのです。脛は、腿の代わりをしてくれていたのです。

キリストの体なる教会はまさに人の体のようです。普段は手や足のようにそれぞれの役割があります。それが神様から授かっている賜物です。それを生かして互いに奉仕を担い合っています。しかし、昨今の「コロナ」のような不測の事態にも、主は先立って、また共に歩んでくださり、そして体にある代償機能も用いてくださいました。体はもちろん、私たちに与えられているすべては、あらゆる必要を満たして、欠ける所が一つもありません。振り返ってその事に気づかされる時、お造りくださったのは主。それをひしひしと感じ、私は感謝に溢れています。